緋楽の章(3)


緋楽の章 [3]





 ガクラータとの開戦という段となっても今だ馳せ参じようとしない旧臣たち一人一人に会い、次期皇帝の妹として参戦を呼びかけるのが、ここ最近の緋楽の仕事であった。
 公主であれど、女のすることではなかった。この非常時であるからこそ、許されたことであろう。
 緋楽と会話した男たちは皆、まるで同性の者と話しているような錯覚を覚えるという。身なりはどこまでも女らしく装い、物腰も公主として恥じぬものであるというのに、緋楽という存在は見るものに剛毅を感じさせた。
 血の為せるわざなのかもしれなかった。
 その働きは、見ているものに痛ましさを覚えさせるものでもあった。緋楽自身はなんら苦痛に感じていないにせよ、盛りにある女が、誰かの暖かい腕を知らずにこうして政治の中枢に組み込まれてゆくさまを、彼らは不幸としか捉えなかった。それでも現実に、戦争中である現在、彼女には恋、ましてや結婚などほど遠い世界のことである。
 この日も、傍観を決め込んでいた櫂領京群太守に、吉孔明が戦場で書いた直筆の檄文を緋楽自ら届けた。
 緋楽は帰りの車の中でも休むことなく、朝楚についての報告書を読む。洞垣堆をはじめとした自らの手足として働かせている朝楚人の楽師たちに探らせたものである。
 なにやら、女王と、王女の間に不穏な動きがあるらしい。
 ――果たして、囚われの赫夜は、その中でどうしているのだろうか。
 陽香が……このわたくしが見捨てた赫夜の命は、いまだ散ってはいないだろうか。
 ひとり物を考えていると、自然とそのことが脳裏に浮かんでくる。全てを切り捨てた筈である。そのことについてどのような些細なことでも、泣き言を漏らすつもりはない。自分は切り捨てた側であり、その選択について後悔などしてはならないのだから。――それでも。
 表情に出さないからといって、何も感じていないわけではないのだ。
 赫夜のことだけではない――普段は仕事に支障があるとして考えないようにしてはいる洞垣堆の言葉が、気を抜くとすぐにでも彼女を苛む。
 春陽がガクラータに与したという垣堆の主張。それだけはありえないと思う。他の誰かならともかく、あの春陽が?
 国を愛し、そしてなにより吉孔明兄さまを愛した春陽が、敵国の王太子と通じたなど、とても信じられぬものではない。それほどに容易く敗れる絆であるのなら、兄や春陽が苦しむはずがなかったのだ。
 しかし、他でない自らの腹心の言葉を一蹴することは出来なかった。信じたくない、有り得ないという想いを押さえ込み、詳しく調べさせているところだ。
「……春陽」
 同じ陽香の地にいながら、今は遠く離れる異母妹を思う。



*  *  *



 斉領に張った夜営地でその報告を受けたレセンドは、滅多なことでは感情に揺れないはずの秀麗な顔を歪ませた。
「なんだって今更……」
 レセンドの独白には応えず、王の紋章が入った甲冑を着込む使者はただ黙って頭を垂れる。
 ランギス王国は、求められるまま王女を差し出すほどに、我が国と戦いたくなかったはずだ。我が国が陽香に腐心している今が好機だとでも思ったか。……それとも、何者かに唆されたのか。
「レイナはどうしている?」
 あれはランギスの王女だ。事前にこのことを知らされているのなら、ガクラータを脱出しているはずだが。
「前もって呼び戻されていたそうです。無論、表向きは単なる里帰りでしたが、随分強引に許可をもぎ取ったと」
 使者の言葉から、王太子妃に対する敬語は消えていた。レセンドが愛妻家なら話も違ったが、ランギスからやってきた花嫁を無視していることは有名であり、使者は特に彼の心情を図る必要がなかったのだ。
 クリス……クリストファー=ザラは一体何をしているのだ――苛々とレセンドは毒づく。報告を聞く限りでは、本国では迎え撃つ準備しかしていないようだが、まずランギス王国に出兵の理由を問いただし、話し合いを求めることから始めるのが先のはず。それが外交というものだ。クリスが弁えていないとも思えないのだが……。
 ──あるいは。
 レセンドは、それを失念していた自分に失笑した。
 あるいは、すでにあの男は使えない人間と成り果てているのかもしれない。
 クリスは春陽を容認できない。おそらくわたしが人間に執着すること自体が許せないのだろう。あれは、わたしが脆さのない、完璧な王になることを望んでいたから。いずれ、クリスは敵になる。あいつはわたしを元に戻そうと考えているだけであろうが、春陽を害するつもりであるのならば、わたしにとってすでにあいつは敵だ。
 そして、レセンドに喪失感はなかった。唯一の腹心さえ、彼は心に棲ませてはいなかった。彼の心はただ、ひとりの少女だけのものだった。
「ご苦労。何かあったらまた知らせてくれ」
 それ以上の報告はないと見て取ったレセンドは、無駄話を避けるためにそっけなくそう言った。それでも横柄ではないのは、彼がまだ理性的であったからだ。相手は国王から遣わされた使者である。蔑ろにするのは彼の微妙な立場からすると得策ではない。その男もまた、レセンドの性格を良く知るので、簡単に礼をするだけに止め、部屋を去った。
 使者を追い払うと、レセンドの表情は一変した。手近にあったテーブルを力任せに引き倒す。かなり派手な音をたててテーブルはひっくりかえり、乗っていたワイングラスがぱりんと割れた。その大音響に慌てて様子を伺いにきた者があったが、彼は険のある声で用がない者は顔を出すな、と命じた。感情のまま行動する王太子というものを初めて見た者たちは一様に顔を見合わせたが、逆らうのも恐ろしいのでそそくさとその場を去った。
「………ふざけるな。なんのためにわたしは陽香に来たのだ」
 押し殺した声はあったが、彼らしくもなく言葉は殺気だっていた。
 穏やかに振る舞うのも、もう限界である。
 陽香に来てから、ほとんどまだ何もしていない。小さな勝利を一度あげただけである。このまま陽香から撤退したら、ガクラータの陽香進出は振り出しに戻る。吉孔明皇子は紀丹宮に堂々と戻り、即位することが出来てしまう。わたしはそれを阻むことが出来ない。わたしがランギスにかかわずらっている間に、陽香は我が国の支配から立ち直り、国家としての体裁を取り繕うだろう。そうなれば、今まで陽香進出に掛けてきた時間と国費は、労力はどうなる。否、それよりもわたしの心の安寧は。
 だがレセンドは一時撤退に従わねばならないことも分かっていた。ここでガクラータ本国が敗北したら意味がないのだ。いきなり国ごと滅亡ということもないだろうが、敗戦した場合、ランギスに莫大な賠償金を払わなければならないどころか、両国の立場が逆転する。
「仕方……あるまい」
 苦汁に満ちた表情で、レセンドは絞り出すようにそう呟く。
 レセンド王太子は一旦紀丹宮に戻り、自分がいない間の守備を固めてから帰国することを決定する。
 十一月も半ばのことである。



*  *  *



「ガクラータ軍が退いた……?」
 緯択王から聞かされた言葉に、皇子は不審も露な目で緯択王を見返した。
 野営地の中で、軍議用に仕立てられた天幕の中、燭がゆらゆらと男たちの額を照らしている。じりじりと焼ける油と、彼らが身体に染み込ませた鉄さびの匂いが混じり、薄暗い天幕に広がる。
 卓子に腰をかけるのは皇子・吉孔明のみで、臣下たちは皇子の正面に立ち、直立不動である。中でも一歩前に進んで奏上しているのは緯択王であった。彼は、斉王や戦死した櫂王とは違い、精力的な壮年の男だった。王というより、馬上で戟を手にしている方が如何にも似合いそうに見える。
 緯択王は自分自身も怪訝に思いながらも、主君に説明した。
 斥候からの情報で、ガクラータ軍は紀丹宮に戻り始めている、というのだ。極めて不自然なことである。ガクラータ軍は、紀丹宮まで陽香軍に攻めのぼられたくないがために、ここまで進軍してきたのだ。先ほどの戦いでも辛くとはいえど勝ったのだし、退く理由など何もない。
「罠ではないのか?」
 吉孔明が疑わしげにそう確認したのにも無理なかった。前回の戦いでガクラータの策略に嵌められた身である。
「退くそぶりを見せているだけ、とは考えにくいのです」
 ガクラータ軍は実際にかなりの距離を引き返している。それもかなり急いでいる様子だ。――男たちは唸った。何か予定外のことがあったのであろうか。それともやはり策略か?
 吉孔明は千里眼ではないので、ガクラータ国内で何が起こっているかなど知りようがなかった。しかし彼の知らないところで確実に、情勢は陽香に有利となっていたのである。


 陽香皇帝・那尖はそのときも、暇を持て余して紀丹宮の広大な書庫に閉じこもっていた。
 文官としてそれほど重要な役目ではないもののなかなか忙しく働いていた半年前と比べ、傀儡の皇帝などというものになってしまった今は全くもってやることがないのだ。
 清掃は行き届いている筈であったが、それでも古書独特の埃や黴のにおいが、ともすればささくれ立ちそうになる彼の心を、ささやかではあるものの安寧に導く。
 そういうわけで書に没頭していたのだが、昼を少し過ぎたころ彼はガクラータの役人に横柄に呼び付けられた。その役人は陽香語が使えるために陽香総督ソヴァンス公の下で働いているのだが、ソヴァンス公爵の威光を自分の実力と勘違いしているのか、傀儡とはいえ皇帝である那尖を前にして横柄に振る舞って恥じない。陽香が敗国であることを差し引いても、一介の役人の態度とは思えなかった。
 しかし那尖は特に反抗的な態度も取らず、至って低姿勢で「はい、なんでしょうか」と聞いた。役人は馬鹿にしたような、それでいて優越感に浸っているかのようでもある顔で、ソヴァンス公爵がお呼びになっている、と言う。
 初めてのことに、那尖は眉を顰めた。
 那尖は、これまで空気のように扱われつづけた。命を失う恐怖こそないものの、僅かに皇族の血を引くという立場のみ利用される身として、蔑ろにされつづけた。尤も、だからこそ自由を許されているというのもあるのだが。
 ともかく、公爵に彼が会ったのは数回のみである。それも初回以外は偶然が重なった結果でしかない。だというのに、今更自分に何の用があるのだろう?
 しばらくして那尖は申し付けられた通りに陽香総督ソヴァンス公の執務室に馳せ参じた。
 公爵は、年の割りにやや白髪の多く交じった金髪と、理知的な碧の瞳を持つ男だった。緊張して膝を折る那尖に、彼真っすぐな視線を向けた。傀儡の皇帝にすぎない彼にまともに向かい合うガクラータ人は、彼が始めてだった。
「陛下」
 ソヴァンス公は、那尖に向かってそう呼びかけた。はじめ、その彼のまっすぐな眼差しに戸惑いを受けるばかりだった那尖は、しかしその呼びかけに対して、こみ上げる歪んだ笑いを抑えることに酷く苦労した。
 この生真面目な大国の公爵は、傀儡だとしても、あくまで那尖を皇帝として扱おうというのだ。
「突然のことで申し訳ございません。――実は、レセンド王太子殿下が、兵を引き上げ、一時的ではありますが本国に帰還することに相成りました。」
 那尖は帰国の理由を含め、詳しい事情を説明されることはなかったが、どうやらガクラータ国内(国外?)に不穏な動きがあり、王太子はそれを平定するために帰国せざるをえなくなった、ということは察した。
 那尖に必要事項を伝えるとき、ソヴァンス公爵は終始落ち着いた態度でしかも紳士的だった。その品のある様子は、流石に大国の大貴族といった風格を感じさせる。もともと総督という地位は、貴族でも王家に近い公爵家の人間が務めることが多い。尤も、それは公爵という地位ゆえの特権というわけではない。よく考えてみると分かることだが、言葉の通じない異国で、しかも政治の中枢から切り離される植民地に誰が積極的に行きたいと思うだろうか。もちろん総督になると少なからぬ報酬が懐に入るが、公爵家にしてみれば問題にならぬ額だ。総督を務めるということは、実益の為というより王家への奉仕といった面が強い。
「この紀丹宮はその間どうするのですか」
「殿下は軍の大半をこの紀丹宮に残してゆくそうです。つまり紀丹宮を放棄することはせず、都ごと人質にしたまま、殿下が帰国するまで籠城することになります」
 その言葉の調子には、それほど焦燥は含まれていなかった。
 王太子は一旦紀丹宮に戻り、予想される陽香の攻撃に対する迎撃の準備を整えてから本国に帰る。ソヴァンス公爵は四カ月は籠城できると判断していた。陽香全体を見てみると、地方に配属されたガクラータ貴族による酷い重税と略奪による飢えがいよいよ深刻化してきたが、都・栄屯では敗戦後にも豊かな食料が約束されていたからである。もっとも、その豊かな食料が誰の口に入るのか、陽香人たちは憂慮せずにはいられなかったが。
 王太子が相手にするのは自国よりもはるかに国力も軍事力も劣るランギス王国である。四か月後という猶予を使い切ることなく、確実に王太子は再び陽香に戻ってくるだろう、とソヴァンス公爵も王太子の案を積極的に支持したのだ。
「籠城、ですか………」
 凡庸という理由で選ばれた傀儡の皇帝は、総督の説明に対して、その台詞を真似るだけの反応しか表さなかった。


*  *  *



 現時点で、敵国であるガクラータ王国で起こったことを、春陽ほど詳しく知り得た陽香人はいないであろう。彼女は軍を引き返して紀丹宮に戻ってきたレセンドから、ランギス王国の決起を知らされたのだ。
 だが、ランギス王国は何のために出兵したというのだろうか。
 政治に関わる者のことごとくが抱く疑問を、春陽もまた抱いた。
 今まで、何度もランギス王国がガクラータ王国に出兵してもおかしくない状況があった。ランギスは覇王が統治する大国の隣国であるゆえに、これまで数々の理不尽な要求と国政の干渉を受けてきた。ランギス王妹レイナへのガクラータからの強引な求婚がその最たる例である。しかしどんな問題をかかえたときでもランギスはけして出兵してはこなかった。多くの犠牲を払ってまでも、ランギスは耐え忍び続けることを選んだのだ。先ほど例にあげたガクラータからのレイナへの求婚にいたっては、ランギスを乗っ取ろうという野心があからさまであったのにだ。それが今更、何故。出兵すべきときにしなくて、何故このように脈絡もなく攻撃してくるのだ。
 ランギス王国について、それほど詳しくなかった春陽は、自分でその答えを探すことが出来ず、そこで夜の営みの後、褥の中で王太子に問うた。
 甘い陽香の香が焚き染められ、朱と蒼が混じったような不思議な蜀の光が、混沌と閨房を映し出していた。いつまでも眩暈し続けているような、現実とゆるゆると引き剥がされているかのような――春陽と身体を重ねるとき、いつも王太子は嘔吐をもよおすかの如く不快な、それでもどうしても手放しがたいものを感じる。囚われている、と思う。
 組み伏せたとき、慧とした黒曜石の瞳の輝きがふと鈍り、濁り、そしてただの黒い玉に変わる様を、王太子は凝視する。それは安堵であり、恐怖であり、そして諦観だった。その瞬間、春陽は己のものになっていたし、同時に、彼が求める春陽は永遠に己のものにならないのであった。
 そのような、現とも幻ともとれぬ時間を浮遊していた王太子は、突然の春陽の問いに、眉を潜めた。
 睦言に相応しい話題とは言えなかった。王太子にとっては、紀丹宮に春陽を残して出兵してから、久方ぶりの逢瀬である。今更優しい時間など求めてはいなかったが、他に言葉があるのではないだろうか。
 それでも、偽りばかりの言葉よりはましだった。
「さあ、知らん」
 春陽の問いに答えるレセンドの声は淡々としていた。彼はレイナという存在に対して、何の注意も払っていなかったので、張本人が彼女だとは気づいていなかった。彼は心底、レイナに興味がなかったのだ。
「ランギスになんらかの利益があるとは思えない。国内に過激な国粋主義者が宮廷を荒らしているのか、あるいはランギスは何処かの国に躍らされているのか……」
 そういうレセンドの台詞は、至極ありがちで、尚且つ一番可能性の高い予想であったし、それには春陽にも依存はなかったが、事実とは食い違っていた。
「春陽。ガクラータ王国に帰国するとき、当然お前も一緒に帰国させるからな」
「………」
 レセンドの確認に春陽は答えなかったが、どこか安堵の表情を浮かべているようにも見えた。
 ガクラータ王国こそが春陽の敵国であるはずなのに。
 レセンドは複雑な心境で春陽の心の裡を探ろうとした。陽香に来てから、彼は春陽が放心している場面をよく目撃するようになった。何を考えているのか分からない、瞳に何も映していない――まるで鑑賞植物のように。放心している時間は次第に長くなり、その度にレセンドは現に戻そうとして彼女に酷い言葉を投げつける。
 彼はその行為の愚かしさに気づき始めていた。
 それでも、彼に出来たことは春陽が安眠できるように、彼女よりも先に眠りに落ちることだけだった。



*  *  *



 十日後レセンド王太子がガクラータに帰国すると、王都は一応安堵した。都は王太子と春陽に対する悪い噂が溢れていたが、少なくとも国民はレセンドの軍を動かす手腕については信用していたのだ。だがここでレセンドが失敗すると、噂の内容は加速的に悪化することは確実であった。
 噂はいろいろあったが、その根幹はレセンドが“ラウタ”の女を寵愛していることだった。一国の王女とはいえその国は敗国で、しかも四成大陸の人間である。選民意識の強い国民が不快感を持つのは当然の成り行きだたし、それを誰かが煽れば容易く不満は広がるだろう。それも、レセンド本人よりも春陽の方へと。
 レセンドは春陽のことがないかぎり、国民の間ではそれなりの人気があった。容貌は端正で見栄えがするし、なにより実力がある。尚且つ、自国の次期国王の悪口を言うよりも、ラウタの女の悪口を言う方がすっきりとするのは当然なので、王太子を血迷わせた(らしい)陽香公主に、『傾国の妖女』という恨みの籠もった言葉が冠されてしまうのだった。
 そのような声は勿論、庶民たちの間だけに止まらない。というよりも、ただの噂で失脚することもありうる宮廷の方こそ、噂というものは真実性を持ち、且つ陰湿なのだった。
 だがレセンド王太子は帰国した途端、落ち着く間もなく出兵したので、自分の立場に対する微妙な変化に気づく暇を与えられなかった。いくら彼が人並み以上に聡いといっても、貴族たちが腹に一物を抱えているのはいつものことであり、不審に思うことはなかったのだ。
 出兵に際して、レセンドは国王から陽香制圧には出動しなかった兵五万を新たに借り受けた。陽香から自分と一緒に連れ帰った精鋭軍『忠実な武力』を併せると、ランギス軍討伐に動員される兵は約七万人となる。兵数が少ないと内心不満に思いつつも、レセンドはこれを率いてランギスとの西の国境線を目指した。



*  *  *



 レセンド王太子が進軍している頃、ダン伯爵フラント=カサンナは王宮内の人気のない一角で、息子の報告を受けていた。それまで急な出兵の準備で慌ただしく、出兵が終わったこのときやっと息子と話すその機会を得たのだった。
 壮年とはいえど品の良い、その端正な顔に浮かぶのは、苦渋。
「………それほどまでに殿下は溺れておいでか」
「残念ながら」
 レセンドが王太子という地位になければ、春陽への想いも歯止めがきい
たのかもしれない。あるいは彼が孤独ではなく、聡明でもなく、ただ平凡な青年であったのなら。
 ――否、春陽が心からレセンドを愛しさえすれば。
 それならば、誰が反対しようとフラントは祝福しただろう。春陽は時折冷たい表情をするが、本来は心優しき娘だろう。二人のなかの感情が暖かなものであれば、レセンドの心は安らぎ、彼は愛することを知り、彼の心の平安は国を平らかにする。たとえ時間がかかろうとも、いつか彼らは受け入れられるだろう。
 わたしは安堵するはずだ。ずっと心配だった甥が幸せになれば。
 しかし、ああそうだ。現実はそうではない。
 春陽はレセンドの妻であるレイナに対して、全く頓着していなかった。もし彼女が王太子を愛しているのなら、形式だけとはいえ彼の妻であるレイナに1ガズ程にも嫉妬しないというのは変な話だった。春陽が生来嫉妬の気持ちが薄いせいとも考えられるが、それにしても全く嫉妬心を持たないなどというはずがない。彼女は若いのだから特にだ。勿論、彼の姫は尋常の姫ではない。上手くそれを隠しているという可能性もあったが、フラントが観察する限りではそれも疑わしい。彼は自分の人を見る目には自信があったし、嫉妬を完璧に隠し通せる者がいるともは思えなかった。
「テイト。お前はクリストファー卿のことをどう思う」
「それはどういう意味で」
「民衆を扇動しているのはかの青年だ」
 思ってもいなかった父親の言葉に、テイトは返事が遅れた。
「………まさか。あの方は王太子殿下に心酔していたはず。殿下を見放すというだけならまだしも、いきなりそれが敵にまわりますか」
 息子の反論に、しかし父親は確信をこめて言った。
「調べはついてある。なにしろ、クリストファーは自らの行動を全く隠していないのだからな。……それに、王太子に心酔しているからこその、この行動なのだと私は思う。彼がまず標的にしているのは殿下ではなく、春陽姫だ。彼はきっと、まだ王太子殿下を見切ることができていない。だからこそ殿下を試しているのだろう」
「試す?」
「ああ、断言は出来ないが……彼は殿下に突き付けているのだ。民衆にこれほど反対され、腹心に反逆され、春陽姫の存在が自分の立場と国政に悪影響を及ぼそうとしているのに、まだ手放そうとしないのか、と。もしこのまま春陽姫を側におけば、今は彼女に向かっている悪感情が王太子殿下にも向かい、ついに民衆は現政治への不満をも声高に叫ぶようになるかもしれない。そうなれば、ただでさえ劣り腹であるレセンド殿下を王太子位から引きずりおろそうという動きが再び活発になることは必死。悪くすればランシェル殿下にその位を明け渡すことにもなりかねない」
「わざと王太子殿下を追い詰めて、以前の殿下に戻っていただこうと、そう考えているのか、あの人は」
 テイトの言葉は、だが淡々としていた。王太子の春陽への想いや、クリストファーの王太子への忠心は度を超していて、そのあまりの強い執着が却ってテイトを冷静にさせた。二人の感情について行けなかったからだろう。
「そしてそのためには、必然的に春陽姫を排除しなくてはならない」
「民衆を扇動するのは、一石二鳥というわけですね」
「そうだ」
 春陽を潰し、王太子の目を覚まさせる。
「───けれど父上。殿下は姫を手放さないでしょう」
 クリストファーには可哀想だが。
「ああ」
 何故、春陽姫でなければならなかったのか。何故、陽香と戦争になってから二人が出会ってしまったのか。
 栓ないことだとは分かっているが。
 ダン伯爵フラント=カサンナは疲れの滲む溜め息をついた。それは、必要以上に彼を老いてみさせた。
「我が息子よ。わたしは春陽姫を排除すべきだろうか」
「!」
「このままでは殿下は破滅する。姫の存在が、国を傾ける」
「か、傾けるとは大袈裟な。もし殿下がどうしても春陽を手放されないのなら、殿下が王太子位を手放せばよいことではっ」
 そうして静かな生活を送ればいいのだ。そうすれば、後継者問題もまた片付き、話は簡単になる。
「そうはいかない。お前には教えていないが、今やこの国は王太子殿下おひとりの肩にのしかかっている」
「それは、どういう」
 息子の問いに答えるか否か、フラントはそこでしばし逡巡した。だが意を決する。
「今から話すことは一切他言無用だ。お前がその軽い口を開けば、わたしはお前を勘当するからな」
「誓って」
 テイトが慣習でサチス神の名のもとに誓うと、フラントは辺りに潜む陰がないか確かめ、重たく口を開いた。
「近々、国王陛下は崩御なされるかもしれない」
「────っ!!」
 息を呑んでテイトは絶句した。心臓が早鐘を打つ。
 彼が生まれる以前からガクラータ王国のみならず、覇王として大陸に君臨していたキーナ三世が崩御する。王は体調を崩してからはずっと寝台上の生活を余儀なくされていたが、それでもテイトにはそれが信じがたかった。
「ランシェル殿下は………あまりに幼すぎる」
「ええ、ええ、そうです。その通りです」
 動揺しながらも、テイトは勢い込んで同意した。
 テイトはまだ公式の場以外にはあまり姿を見せない幼い王子のことを良く知らない。だがまだ四歳。価値観というものが確立されていない。もしその幼さで即位すると、奸臣が増え、その心は蒙昧なものにと染まってしまう可能性が極めて高い。
 否、問題はそんな先のことだけではない。今現在ガクラータ王国は敵だらけだ。キーナ三世の軍国主義のためである。それでも今まで属国の大きな反逆を押さえてこれたのは、覇王が治めるガクラータ王国が強国であったからだ。だがガクラータ王国の支配力が衰えを見せ始めている今、キーナ三世が崩御し、幼いランシェル王子が即位するとガクラータ王国は数多くの属国を御しきれなくなる。これまでキーナ三世はその存在自体がガクラータの鉄壁であったのだから。
「殿下が全てを見失ってからでは、遅すぎる」
「けれど父上。春陽姫を排除することは、そのまま殿下の破滅に繋がります。殿下は、きっと彼女がいないことに耐えられない」
 静かな息子の言葉に、ダン伯爵は目を見張った。そして重たすぎる吐息を吐いた。
「………お前が正しい」



*  *  *



 ランギス軍は要塞をふたつ陥落し、国境を30kmほど侵していた。それまでランギス軍の進行を阻むべく兵を率いていたのは、王弟のタイラ公爵であったが、甥であるレセンド王太子が合流すると、彼は実に嫌な顔をしながらも王太子に全権を明け渡した。
 一方ランギス王国はガクラータ王国に対抗するために、同盟を結ぶことを求めて幾つもの周辺諸国に使者を送り、そのうちシルヴァ公国・カタイツ王国・聖王国アーマなどから色よい返事を得ることに成功していた。これらの国々は、ガクラータからの支配を断ち切るためランギスに味方する意志を固めつつあった。あと一週間もすればランギス軍のもとに到着するはずだったので、それまではガクラータ軍との正面衝突を避けていた。
 シルヴァとカタイツはランギスの隣国で、友好国である。もともと歴史的にランギスに肩入れする習慣がついているうえに、もし隣国であるランギスがガクラータに征服されてしまえば次は我が身という計算が働いたのだろうと思われる。
 聖王国アーマはかつて帝国としてこの大陸で覇を誇っていた。その勢力の凄まじさは、いまだこの大陸の名前がアーマとあり、大陸の公用語がアーマ語であることからも伺い知れる。だが現在では有力国ではあるものの、大陸一番の大国の座をガクラータ王国に譲ってしまっている。ただし聖王国アーマは、ガクラータと対等な交易を行っているほとんど唯一の国として、他の国々から一目おかれていた。彼の国はそれだけでは満足せず、新なる国力の向上を狙ってランギス王国に力を貸そうと考えたのだろう。
 見回してみると、ガクラータは敵が多く、またいつも裏ぎるかも分からない属国を幾つも抱えている。ここにきてキーナ三世が行ってきた過度の侵略の無茶が明らかになってきた。しかし実際にガクラータに楯突こうとまで考える国は少ない。どの国も、他国があわよくばガクラータを抑えてくれないかなと、甘い期待をするのみである。そう簡単には国同士の同盟は成立しないし、もし成立してもそれを裏切ることでガクラータに尻尾を振ろうと考える国は多いだろう。成功するかしないかも分からず、それなりの損害を覚悟してまで反逆を考えるよりも、ガクラータと友好的な立場を取り、優遇してもらうほうが容易で安全だと思っているのだ。
 それでも三つもの国が集まったのだから十分だ。自国を併せた四国の連合軍は、数でいえばガクラータを圧倒的に優越する。もしどれかの国が心変わりして同盟から手を引いたとしても尚、あまりある。僅かに強くなった希望の光をしっかり掴んで、ランギス国王ユリーは戦いに馬の歩を進ませた。


 ガクラータ軍と接触したのは、ランギス軍が祖国の都を出発してから一カ月ほど立ってからのことであった。その地は彼方まで草原が続く野であり、メイピーナという。十二月に入り様々な草木が色を失っても尚、メイピーナの草原は青々としていた。少し湿った葉から生々しい野生の葉の匂いが発せられ、戦場に立ち込めている。
 すでに冬に突入しているというのに、それほど寒さを感じさせなかった。割りと温暖な気候の陽香とは違い、ガクラータの冬は厳しいのだが、このあたりの地域は例外だった。戦いを前にして高ぶっているだけかもしれなかったが。
 そうして太陽が南中するとき、歴史に残るメイピーナの戦いはランギス軍の予期しない形で始まった。ガクラータ軍にとっては予定通りである。ランギス王国はまだ同盟国軍と合流していなかったのだ。
 戦いの行方は決まったも同然だった。ガクラータ軍を率いるレセンド王太子は、尊大でさえある堂々とした態度で馬を駆らせた。
 長槍が、馬蹄が、きらめく。立ち上がる砂煙の匂い。刃こぼれするときの、ざらついた嫌な音。悲鳴。罵声。角笛の号令に、突き進む人の群れ。  血の饗宴が始まる。


「何故、来なかったのだ………」
 それが国王ユリーの断末魔の言葉だった。小さな国ながらも古い歴史を持ち、また大陸一の香辛料貿易を誇り、豊かな部類に入っていたランギス王国の国王は、傷を負って暴れ狂う馬から転落し、首の骨を折って絶命した。
「国王を討ち取ったぞ───っ!」
 得意げな、血に酔ったような絶叫は、瞬間、戦場を支配した。ただちに国王ユリーの首級が揚げられ、敵味方の前に晒された。ガクラータ兵はこの明らかな圧勝に快哉を叫び、ランギス兵の指揮は目に見えて落ちた。彼らの多くは混乱し、上官の撤退の命令さえ耳に入らず、掃討戦に突入したガクラータ兵にむざむざ殺されていった。
 ガクラータ兵は鬱屈していた。度重なる戦いに疲れていた。それを払拭するため、彼らは自ら血の酔おうとする。
 ランギス王国の命運は、たった一度の会戦であっけなく尽きた。メイピーナ会戦は、当時のガクラータ王国の軍事力を象徴する戦いとして、後々までも史書上に輝かしい光りをガクラータ王国に捧げることとなる。
「何故、来ないっ!?」
 将官の一人が亡き国王と同じことを神に問う。ガクラータ王国と同じサチスの神にむかって。
「シルヴァはっ……カタイツはっ!?───聖王国アーマまでも!!」
 何故、駆けつけてこない。我が国と同じくガクラータ王国に虐げられる国でありながら!
 それともガクラータ王国に逆らおうと考えたランギスの方が愚かとでも言うのか。彼の国々は安住を手に入れるために、奴隷から自由人になろうとするのではなく、主人のお気に入りの奴隷になろうとするのか。
 いや、我らは間違っていない。あの暁の海の髪を持つ女がそうおっしゃっ
たのだ。我らの王妹が。不可侵なる我らの聖女が。
 王家に忠誠を捧げる騎士として、そして王妹を崇拝する者として、彼は戦い続ける。真実から目隠しされたまま息絶えた彼は、あるいは幸せかもしれない。
 ランギス王国にとっての悪夢は長く続いた。レセンド王太子はまったく容赦なしに敵軍を追い詰めた。兵の質からしてガクラータ王国とランギス王国では差がある。レセンドが特別優れた指揮などせずとも、勝敗は初めから分かり切っていた。
 明らかに勝てる戦いで、王太子が必要以上に苛烈な責め方をしたのは、八つ当たりもあったのかもしれない。
 戦の全てが終わったのは夕暮れどきだった。ガクラータ軍が去った後のメイピーナの地には、ランギス兵の死体が累々と重なっていた。
 王を喪い、後継者のいないランギス王国はその日、滅びた。――地図が塗り替えられ、大陸に鳴動が走る。



*  *  *



 情勢の変化はなにもアーマ大陸だけのことではなかった。海で隔てられた四成大陸でも今まで傍観者に徹して国々が脈動を始める。
 ガクラータ王国の王太子が、四成大陸から一旦退いたことが分かると、周辺諸国、特に白流と大茗が色めき立った。いつ自国にまでその魔手が伸びるかと、息をつめて見守っていたガクラータ王国が大陸から退き、また四成大陸諸国の大国として長く君臨していた陽香もガクラータ王国の侵略によって疲弊していた。我が国が力を広げるのは今ではないか、そう考えたわけである。
 そんな状況下、渦中である陽香ではついに吉孔明皇子が都を奪還するために動き出した。陽香に残ったガクラータ軍の多くが紀丹宮に籠城していることをいいことに、彼らはほとんど何の障害もなく街道を進み、とうとう正門を望める程に都栄屯に肉薄した。
 籠城の構えを見せていた敵軍に異変があったのは、その地に野営を張って二日、払暁から半刻もたたぬ頃合いのことだった。
「へっ殿下!」
 それまでまだぐっすり眠っていた吉孔明は、天幕に飛び込んで来た緯択王によって目覚めさせられた。だが若き皇位継承者の顔から眠たげな色はすぐに消え、とても寝起きとは思えぬ機敏さで牀から降りる。
「寝起きをお騒がせ致します」
 慌てながらも辛うじて礼節を守ろうとする緯択王を、吉孔明は遮った。
「よい。用件は」
「城門が開きましてでございます」
「何だと」
 緯択王は早口で説明した。都・栄屯を囲む第一の城門だけではない。紀丹宮の全敷地を囲む第二の城門までもが開いたという。残るのは、紀丹宮そのものを囲む最後の壁・第三の城門のみであると。吉孔明たちが攻めあぐねるのは城門の存在があるからである。その三つの城門のうち二つまでが無効化した。ならば紀丹宮奪還は思う以上に容易くなる。
 だが。
「どういうことだ………?」
 いくらなんでも都合良すぎる展開に、吉孔明は頭を捻った。それに対して明快な答えを返せぬのは緯択王も同様で、主従はしばし無言になる。しばらくして、その沈黙を破るように新たな闖入者が皇子の天幕へ駆けつけた。
「吉孔明殿下、な、那尖さまからの早馬がっ」
「那尖だと!?」
 吉孔明は思わず立ち上がった。
 陳那尖。言わずもがな、属国としての陽香を存続させるためガクラータが仕立てた、傀儡の皇帝である。



*  *  *



 同時刻、ガクラータ軍の騒ぎは陽香軍の比ではなかった。
「何をしている……っ!?」
 見回りの途中で遠くから、怪しい集団が第二の城門を壊そうとしているのを発見した将官とその護衛たちは、慌てて馬に鞭打ち駆けつけた。その集団は陽香兵、それもなんと捕虜になる以前は禁軍に所属していた兵たちであった。とても敵うものではなく、馬首を翻して味方を呼ぼうとしたが、
すぐに追いつかれて彼らは斬り捨てる。城門の前には配置されていた五十人からなるガクラータ兵たちの死体が転がっていた。
 作業の全てを終えた陽香兵たちは、城門に執着せず、指示された通りに一目散に逃げ出した。一度壊された城門は二度と閉まることはない。これ以上ここに止まる必要はないし、却って危険なだけだった。城門の警備兵の全てを始末できたわけではなく、何人かは取り逃がしてしまったので、すぐにガクラータ側にことは漏れるだろう。だが自分たちの方はここに集まった百人程度しかいないのだ。
 彼らが紀丹宮を脱出すると第一の門は市民たちによってすでに破られていた。逆襲の成功を彼らは確信する。
 ガクラータ軍が完全に事態を把握したときには、時すでに遅し。市民が蜂起していた。闇雲に開いた城門から紀丹宮になだれ込んでくるのならまだいい。民人たちの戦闘能力は低く、十人束になってやっと騎兵一人を殺せるかどうか、といった具合だったので。しかし民人たちはあきらかに何者かの指導を受けていた。
 民人たちは徹底的に正面から戦うことを避けていた。勿論、ガクラータ兵に深い恨みを持つ者  肉親をガクラータ兵に惨殺されたり、妻や恋人たちを凌辱された者はそれこそ数え切れないほどいて、中には血気逸って敵兵の前に飛び出し殺される者もたくさんいた。だが、感情に引きずられるなという指導者の言葉をしっかりと胸に抱いている者もまた多かった。
 感情に引きずられて行動すると、自らの命を無駄にするだけでなく、親族の復讐の機会も永遠に失われるのだ。………彼らの指導者はそう諭した。
特にその言葉の後半は、解放への渇望が高じて熱病じみた興奮をする市民たちへの抑止力となった。
 ガクラータ兵たちと市民たちの市街戦となった。幸い、ガクラータ兵にしても市民にしても栄屯を破壊するのは本意ではなかったので、火の手は上がらなかったものの、その分、あちこちから発せられる血肉の匂いを払拭するものは何もなかった。
「この色つきの野蛮人めっ!」
 大勢で馬から引きずり降ろされた騎兵がそう叫ぶと、ガリガリに痩せた少女が唾を吐きかけた。
「陽の国を盗もうなんて厚かましンだよっ」
 その言葉には、先程の騎兵の言葉と同様に異国人への侮蔑が含まれていた。もはや、そこに正邪の区別はない。少女に同調するまでもなく十分に殺気立っていた市民は、次々に騎兵に刃物を突き刺す。
「サチス……我が女神よ………お助け………」
 騎兵が死体へと、死体が肉塊へと変わるのにさほど時間はかからなかった。
 とはいえ事態はやはり市民たちに不利だった。訓練を受けた兵士と一介の商売人では勝負にならない。路傍を血塗る屍は明らかに陽香人の方が多かった。次々に倒れてゆく隣人たちに闘争心を喪失する者も次第に増えてゆく。だが戦いはそれほど長く続かなかった。
「来たぞ………っ那尖さまの言うとおりだ。――皇太子殿下がついにいらっしゃったぞ………っ!」
 吉孔明の入都は、何十万人の大歓声によって成された。機を逃さず突入した皇子軍に栄屯中に歓喜が広がる。彼は自分はほとんど何もしていないのに、救世主として迎え入れられたことに複雑な感情を抱いたが、民衆には君主然と振る舞うことを忘れなかった。
 皇子軍の存在によって戦いは決着のときを見た。同時にそれは虐殺の始まりでもあった。
 自分たちの勝利を知った市民たちは、酔った。今こそ復讐のときだと声高に叫んだ。箍が外れ、鬼となった。
 助けてやれ、そう言おうとして吉孔明はやめた。陰惨な喜びに捕らわれた民人を、ただ見つめる。
「………やめろ、とおっしゃるのだと思っておりました」
「言わぬ」
 含みのある緯択王の台詞にそう返した吉孔明は、しばらくして言い訳のように再び口を開いた。
「全てのガクラータ兵が一般市民を虐げたわけではない。罪があるのはガクラータ王国であって、ガクラータ兵ではないのかもしれない。だが彼の王国の罪を贖わせるには、彼の国の兵の命を以てするしかない。少なくともこの場には王族がいないのだから、そうしないことには不当に殺されていった我が民人たちが救われない」
 皇子の言葉に緯択王は満足げに、おっしゃるとおりです、と言った。
「ここで民衆を制止したら、暴動が起こります。………いえ制止など不可能かもしれません」
 緯択王は、豪胆に見える吉孔明が、実は繊細な性格の持ち主だということを知っていた。そして、皇子として生きていくならそれでもいいが、皇帝となるのならそれは障害になると考えていた。その吉孔明が意外と冷静だったので、彼は若き皇子を見直したのだ。
 だが吉孔明は内心で自分の言葉を嘲笑していた。
 ガクラータ兵を虐殺する市民たちを止めないのは、彼らが自分の代わりにガクラータに復讐をしてくれているからだ。民人のためではない。
 尊敬していた父である皇帝、仲の良かった異母兄である皇太子を殺したのはガクラータだった。春陽を自分から奪ったのも彼らであったし、皇帝になるために何もかもを捨てねばならなくなったのも彼らのせいだった。優しく愛しい妹………緋楽の笑顔と安寧さえ彼らは奪ったのだ。
(お前たちはわたしから全てを奪っていった)
 だから殺してよいのか?
 皇帝としてあまりに狭量ではないか?
 ───分かっている。
 だが春陽を諦め、怒りまで抑えてしまえば、わたしはわたしではなくなる。怒りを抑えることは出来ぬ。
 妹がここにいれば、眉を顰めただろうか。皇帝になるということは自分を捨てることだと………そう言うだろうか。



*  *  *



 五カ月振りに、紀丹宮は真の皇帝になるべき吉孔明を迎え入れていた。荘厳華麗な謁見の間に連れてゆかれた吉孔明は、玉座には座れぬものの皇帝に対するものと同じ礼を以て百官に叩頭された。
「初めて御意を得ます」
 前に進み出た那尖は、感激に堪えないというふうに声を震わせ、膝を折る。
「───長く………お待ち申し上げました」
 そう言った那尖の眼差しはけして凡庸なものではなかった。否、やはり能力の上では凡庸なのかもしれなかったが、彼の忠誠心は疑いようもなかった。彼は傀儡とはいえ皇帝になれたことを喜ぶような性質ではなかった。忠心のあまり玉座に座っている己が許しがたく、画策した逆襲劇はそれを終わらせるためのものだった。
 那尖は感激に流された己に気づくと、はっとして身を改めた。そしてなにやら思い詰めたふうにもう一度頭を床に擦り付けた。
「わたしは不敬の罪を犯しました」
 己に科せられるだろう罰も恐ろしかったが、それ以上に亡き炯帝やこの皇子に反したと思われることこそが那尖には耐えがたかった。だからこそ自分から罪の在りかを告白する。
「罪、とは」
「如何なる事情であれ、恐れ多くも玉座を汚したことこそが、わたしの罪」
 吉孔明は嘆息する。なんと生真面目な奴だ、と思ったのである。本来ならば、紀丹宮奪還の最大の功労者である那尖は、もっと誇らしげにするべきではないか。もういい年をした彼が、まだ若造である自分に許しを請う様は、吉孔明に自分の立場を再確認させた。自分はもはやただの皇子ではない。
「よい。其方が忠心を持つことはよく分かった」
 立場上、口を極めて那尖を褒めたたえることは出来なかったので、そうとだけ返す。
「其方はけして陽尖とは名乗らなかった。背信していたわけではあるまい」
「それは殿下が冠されるべき聖字。わたしごときが名乗るわけにはいきません」
 その那尖の言葉に周囲ははっとした。
 そうだ、吉孔明は一刻も早く戴冠すべきなのだ。戴冠できずとも、取り敢えず陽孔明として立太子しなければならない。
 吉孔明はついに都を手に入れた。拠るべき宮と臣下、莫大な財と食料、兵士、そして守るべき民。それらが彼に決断を迫る。皇帝として侵略者を撃て、と。
 逃げられない。逃げようとも思わない。
「其方の申す通りだ。わたしは………余は、即位する」
 その日、正統なる血筋の者による治世が復活した。
 吉孔明の紀丹宮帰還、それはどのような流れを生み出すのかは誰にも分からぬことだった。









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