春陽の章 [1]





星宿 映ゆる炯紺が海
虚空 何ぞ藍の深き也
波間の軽舟 主君坐す
炯眼畏く 臣済す
敢えて女皇に刀を帯ぶる者
今悟る 天旋るは上帝の定め
遍く民草 君の名を詠じてやまん
太子陽龍 民意に依りて位に即く
祝夜 治世此の日の如く
靖国 君は此の日の如く



*     *     *



 乱れることの希少な海。空は零れそうに満ちた星。
 炯紺の二つ名を持つ海を眺めていた春陽は、不意に思い浮かんだ唄を唇に乗せていた。目前に広がる景色が期せずして、唄の情景と一致していることに気づいたのは、暫くしてからのことである。
 春陽は淡く自嘲した。国が敗れたこの夜に、なんて場違いで、同時になんて相応しい。
 この唄に出てくる皇帝は、号して炯帝、諱(いみな:本名)を陽龍といった。春陽の父である。歓呼をもって玉座へ迎えられた彼が陽香最後の皇帝となるなど、そのとき誰が考えただろう。
 炯帝・陽龍は仁君であった。国庫を満たし、税を減じ、先の帝の苛政を改め、陽香の民という民に崇された。しかし陽香は泰平なる故、戦に慣れず、ガクラータ王国の大軍を前に敗したのだ。
 ああ泣いてもいいだろうか。陽香の民のいない今なれば。
 何故ならわたくしはまだ信ずることが出来ずにいる。
 それでも春陽は涙しなかった。まるで動かし難い証拠を突き付けられたかのように、彼女は敵国の船上にいる。
 現実を投げ出し逃避するには、彼女は理性的であり過ぎた。
 そのかわり、夜空の帳に瞬く星をそっと見上げた。
 もうすでに空と海の区別がつかぬほど闇は深い。その闇で煌々と輝くそれは海面に映り、波にぼやけた光を作り出す。
 残酷な処刑の場においてさえ冷静であった公主を、静かなだけの海が何故か不安の渦に投げ出す。春陽はそれが恐ろしくすら感ぜられた。
 感傷的にはなりたくない。そんな自分は許せない。
「公主さま、そろそろお休みになられませ。お顔色が悪うございます」
 囁くように促され、ようやく春陽は格子戸から離れた。声の主は、自国から連れて行くのを許された唯一の侍女だった。耳慣れた陽香語、黒の髪と瞳、黄色の肌。彼女の存在は、異国の者ばかりに囲まれた春陽を安心させた。彼女の名前は李花鳥(り・かちょう)という。
 春陽よりは年上とはいえ、二十は越えない年の花鳥は、可哀想に自分のほうがよほど蒼白な顔色をしているくせに、絶えず女主人を気遣った。
 その健気さに胸を打たれる。
 だから春陽は、花鳥の言葉を撥ね付けることで、さらに彼女の心労を増やすことを良しとはしなかった。
「わかったわ。こちらの侍女にはわたくしが言いましょう」
 ガクラータ王国に存在する言語はふたつ。ひとつは庶民の話すガクラータ語。ふたつめは公用語であるアーマ語がある。花鳥は当然どちらも使えなかった。春陽はアーマ大陸全般で広く使われているアーマ語を学んでいたので、本来なら侍女の花鳥がすべきことも、必然的に春陽が自ら行うことも多かった。
「申し訳ありません」
 何の躊躇もなく、異邦人たちに声を掛ける春陽の気丈さを哀しく思いながらも、花鳥は少し安堵して頭を下げた。ガクラータ人の外見は、自分たち陽香の人間とはあまりに違いすぎる。肌の色が白く、彫りも深い。何より、瞳や髪の色が宝石のように色とりどりであることが、花鳥には恐怖の対象であった。同じ四成大陸でも西の果ての国々であれば違っただろうが、陽香では誰もが黒い瞳と髪なのである。
 ガクラータ人の侍女たちは、公主の意を受けて、寝台の準備を始めた。
 春陽たちが乗っている舟は貴族専用のようだった。そうというのも明らかに戦艦と思えぬ豪奢さだったからだ。春陽はまだ見ぬ王国の豊かさや文化の発展をこの船に見る。春陽が軟禁されているこの部屋も、春陽のために調度が整えられたのか、腕の良い細工師が作ったのか素晴らしい。もっとも、陽香人である春陽には、趣味の良さまでは分かりはしなかったが。
 この帆船艦を、ガクラータ王国は凱旋のためにわざわざ自国から呼び寄せたのだ。春陽はふと思う──この国に敗北したのは、あるいは自然のなりゆきだったのかもしれない。今まで互角であったのは、両国が海で隔てられているために、ガクラータ王国はわざわざ船を使って長い道程を行かねば、陽香に辿り着けないからかもしれない。ならば再び挙兵しても全て無駄になりはしまいか。
 しかし春陽はその考えを否定した。彼女は残してきた者たちを信じるしかない。
 頭を切り替えてその事を考えるのを止めにする。すると彼女の耳に波の音が、格子戸から届いた。さきほどまでは国王、王太子を交えた宴の声が、風に乗ってここまで届いたものだったが今は静かだ。
 春陽の着替えを手伝っている侍女たちは、戸惑っていた。彼女たちは、黒の髪と黄色の肌を持つヤナ大陸(四成大陸の蔑称)の人間を見る機会があったら、そのとき自分たちはきっと、嫌悪を抱くだろうと今まで思っていた。しかし実際に春陽とその侍女を目にしても、嫌な気分にはならなかった。
 春陽は、侍女たちが貴婦人に連想する甘やかなものとは異なる、硬質な響きの声を持っていた。その声が流暢にアーマ語を話すことに驚いて、侍女たちは顔を見合わせた。しかし、彼女たちは微かな緊張と畏怖、そして好奇心を押し隠すためにむしろ無表情だった。
 ガクラータの侍女たちは、この少女をどのように扱って良いのか図りかねていたのだ。不思議なほど落ち着いているが、彼女はガクラータ王国を憎んでいるだろうし、傷ついてもいるだろう。何かへまをして叱責されてはたまらない。自然と、腫れ物を扱うような対応となった。
 それでもなんとか寝台の準備が整い、春陽が夜着に着替え終わったときだった。
 二人の侍女が春陽の船室を訪れた。春陽は仕方なく促されるままガウンを羽織って迎え入れた。侍女たちは春陽の前に引き出されると、腰を屈めて礼をとった。
「急な無礼を承知で申し上げます。王太子殿下が貴女さまをお召しになられました。取り急ぎ御支度なさいますよう」
 下手に出ているものの、有無を言わさぬ絶対命令だった。春陽はそれが夜伽であることを察したが、断るつもりも権利も持っていなかった。
「公主さま……?」
 礼儀に適っていないことを自覚しながらも、花鳥は口を挟んだ。言葉はわからぬものの、何か大変なことが起こっているのだと、肌で感じたようだった。春陽が通訳すると、彼女は悲痛な表情を浮かべた。それは、どれほど落ち着いているとはいえ一六歳の少女に過ぎぬ公主への憐みかもしれぬし、春陽を護れなかったことに対する、彼女を愛する男に対しての良心の疼きなのかもしれなかった。
しかし嘆く花鳥に対して、当の本人である春陽の思考は冴えてゆく。胸の裡の感傷は消え、冷静で計算高い公主へと変貌する。
 王太子殿下、と侍女は言った。ガクラータ王国でそう呼ばれる人物はたった一人しかいない。 ――レセンド=シュリアス=ベクス=ガクラータ。
 国王キーナ三世の側室(第二妃)の王子だが、長く王妃に王子が生まれなかったことから、彼は王太子となった。四年前に王妃から王子ランシェルが誕生してからも、その聡明さ故に太子位を廃するのが難しいという話だ。
 陽香敗北の直接の因となった朝楚背約の裏には、彼の存在があったという。彼の政治的手腕がなければ、あれほど容易くは敗北しなかったろう。
 今夜の夜伽の最中にでも、レセンド王太子を殺めることは可能と思われた。無論武器の類いは寝所に持ち込めぬが、もともと春陽は素手での体術の方を得手としていた。しかし春陽は己の逸る心を宥めた。今彼を殺しても、陽香には何の益もない。
(焦るな……)
 自らに言い聞かせる。陽香が反撃を始め、ガクラータ王国が鎮圧のために軍を派遣するときまでは。春陽の目的は復讐ではなく、あくまで陽香再建なのだ。ガクラータの王族の死が陽香の反撃の布石となる。
 せっかく着替えた夜着を脱ぎ、柔らかな色使いの衣装を纏う。王太子の為に薄く化粧を施されながら、春陽はその瞬間を夢見た。
(これはわたくしの戦い)
 皇太子・陽征と同等以上の教育を施されたというのに、女であるが故に戦に立てず、公主であるが故に生きる権利をさも当然のように与えられた。
 望めば安穏と生きることを許されている己がもどかしい。
 生への渇望を忘れた訳ではないのだ。
 まして、尊い犠牲になりたいのでもない。
 それでも自分は公主としてするべきことしか出来ぬから。
(そうやってわたくしは生きるのだわ)
 春陽は国へ残した吉孔明皇子のことを思い浮かべた。彼は春陽にとって異母兄であり、本来近しい間柄ではないが、緋楽・赫夜の両公主同様に、同母同然の付き合いをしていた。複雑な皇宮での利害関係から表立っては距離を置いていたが、私的な場では「兄さま」とも呼んでいた。
 今頃、彼は櫂領へ到着しただろうか。わたくしを犠牲にしたと嘆いてはいないだろうか。
 ――吉孔明兄さまは、わたくしを諦めることがお出来になられぬかもしれない。見ることしか出来なかったわたくしの歯痒さを兄さまはご存じではないから。
 けれど兄さま、迷わないで。
 確かに思惑の成就はわたくしの死と引き換えになるだろう。
 それでも望むのは超然と生きること。
 それはわたくしの道。



(どのような姫か)
 多分に期待しながら、レセンド王太子は異国の姫を待っていた。
 普段から酒を嗜むことが少ないため、宴の後であるにも関わらず、彼の頬には酔いの気配はない。彼が酒を飲まないのは飲めないからではなく、万が一深酒となって醜態を他人に晒す可能性を排除危ぶんでいるからである。
 レセンド王太子の容姿は端整であると言えた。だが美貌というほど彼の纏う空気は華やかではない。もっと硬質で、鋭いものだった。
 彼の瞳は、理知的な輝きと同時に傲慢な色合いも含む明るい銀。瞳の同色の髪はゆるやかに波打つ銀糸で、少し伸ばされ項の辺りで一つに結われている。象牙の肌は彫刻のようになめらかで、温かみがない。背丈は並よりは少し高いくらいか。彼の容姿は、彼の性格を如実に語っていた。
 彼は実のところ、今回の遠征で初めてその甲斐があったなと思っていた。というのも、もともと彼はこの侵攻自体が不本意だったからだ。
 確かに四成大陸への進出を望むのならば、いつかは陽香を掌中にしなければならない。しかし現在それを行うのは時期尚早と言わざるを得ない。実際、過去数回の遠征は全て徒労に終わった。
 その打開策として、国王キーナ三世がこれまでにはない大軍を用意し、自ら率いると言い出したときは、レセンドは本気で父王を呪ったものだ。
 その国王みずから出陣して国を空けるのはこの際仕方ないとしても、それに付随する軍が常識外の数だ。国王と軍のいない国なぞ、さぞ倒し易かろう。だが息子の諌言に国王は耳を貸さなかった。その結果、王太子は父王の代わりに様々な策を練り、奔走する羽目になったのだ。彼が、もともとは陽香の同盟国であった朝楚国との交渉を成功させ、短期間決戦に持ち込まなければ、ガクラータ王国は他国に攻められたかも知れぬ。陽香に勝利して凱旋してみれば、自国が乗っ取られていた可能性もあるのだ。
 だがレセンドの不機嫌も、面倒事が一段落して、思いがけず興味深い女に出会ったことで薄らいでいた。
 霸者を以て知られるキーナ三世は、好色家としても有名である。当然陽香の公主は、父王の寝台に送られるはずだった。国王は公主に国を喪った儚い姫を期待していた。しかし実際の春陽公主は弱さを寄せ付けない毅然とした娘であったので、興を殺がれたらしい。レセンド王太子が望むと、特に執着も見せずに公主を息子に与えた。
 レセンドが春陽公主に興味を持ったのは、紀丹宮での処刑のときの噂話を聞いたからだった。あのとき彼は春陽公主を遠目でしか見ることが出来なかったが、人の話だと公主は異母兄たちが殺されてゆく様を見ても、眉を顰めることさえしなかったというのだ。
 暫くして、彼の船室の扉を叩かれた。
『お連れ致しました』
「入れ」
 開かれた扉か、数人の侍女に導かれ黒髪の貴婦人が現れる。
 ――まず惹かれたのは瞳。
(なんと……)
 彼は胸中で素直に少女を称賛し、その瞳を凝視した。
 公主はその眼差しを逸らすことはしなかった。静かに受け止める。
 いつとはなしに侍女たちが退出しても尚、沈黙の中で交わる視線。
 まるで黒曜石のような瞳だとレセンドは思った。彼女の叡知を宿した瞳に言葉を忘れた。春陽もまた、彼の銀眼に自らと同質のものを見いだす。
 けして愚かではなく、気の許せない相手だと認識するのは、互いに容易だった。
 それでもレセンドは笑みすら浮かばせて、春陽を寝台に招き寄せた。彼女もまた恐れず進み出て、促されるまま彼の傍らに坐した。
 王太子は公主のおとがいを掴み、自分の方へ引き寄せた。ゆるりと春陽の皇族故の品ある顔立ちを見定め、「美しいな」と官能的に囁いた。
 禁欲的で理知的な容貌をしているというのに、彼の声は意外なほど蠱惑的だった。深く響く低音。そのときに、春陽はこれから起こることをやっと実感した。そして感じるのはやはり嫌悪でしかなかった。レセンドは想像より見目が良い青年であったが、関係ない。しかしそれは感情においてのことで、理性の方はすでに割り切り、それを表情には出さない。そんな自分を厭うこともあるが、役には立つ。
「何を望む?」
 レセンドは唐突な問いを春陽に投げかけ、反応を窺った。春陽は興じる彼の横柄さに吐き気を覚えながら、しかし、まるでその問いを受けることを前もって知っていたかのように即答した。
「もしお許しになられるのなら」
 そう切り出した春陽を、レセンドは興味深く見守る。
「なるべくの自由をいただきたく思います」
 冷静は己の声を、彼女は他人事のように聞いていた。
「それだけか、たった?」
 望めば大国ガクラータの次期王の愛人として、女の栄華を極めることが出来るのだと仄めかすような言葉。春陽の誇り高さを知りながら。
 まるで一番の寵妃と話しているかのように、口調だけは穏やかだ。しかしその視線で人を撫でるような瞳は、真実味がない。その気になれば演じきることが出来るのに、わざと王太子がそうしていることに気づいて、春陽はさらに不快になった。それ故王太子の仄めかしを無視する。
「貴方は敗国の公主が真に欲するところを知らずして、そうおっしゃるのですか。それとも知りつつそれを叶えて下さると?」
本当に望むものはお前に滅ぼされたのだという痛烈な皮肉を、春陽はレセンドと同じくらいの冷ややかさをもって、淡々と吐き出した。
 レセンド王太子の口元が愉快そうに吊り上がった。
 春陽は媚びなかった。当面の目的、つまり王太子の寵愛を得ようという計画を忘れた訳でも、誇りが土壇場でその行為を拒否した訳でもなかった。必要とさえあれば、商売女のようにしなを作ることさえ厭わなかっただろう。
 春陽はただ、王太子が媚びる人間を見下す傾向にあることに気づいたのだ。
 自分に対する王太子の興味が失せないように、春陽は常に賢く、凛としていなければならない。確かにそれは彼女の本質の一端であったが、いつもそうであり続けるには、かなりの労力が要ると思われた。
 ふと春陽は母親のことを思い浮かべていた。青春耶(せい・しゅんや)が皇后に叙されたのは、権力でも財力でもなく、一重に皇帝・陽龍の寵愛ゆえだ。しかし春陽は母親を神聖視していない。何故なら彼女とて権謀術数渦巻く後宮の住人であったから。
 権力にも興味がない母親が、何故父の寵を望んだのか春陽は知らない。
 母は父に愛情はあっただろうが、男として愛していたのではなかった。なのに、彼女は父に愛され続けることを望んだ。そしてその戦いに勝利したのだ。父はそんな母の心の動きなど、気づくことはなかったろうけど。
 春陽は結局、母親のことを理解することはなかった。しかし確かに春陽は春耶の娘であった。彼女の勁さ、したたかさは違える事なく春耶のものだ。動揺することなく今の状況を受け入れているのが証拠である。
「気が強い娘だな。それは皇族故の誇りの高さか、それとも陽香の女全てがそうなのか」
「存じません。もしわたくしの言葉が不快なのでしたら、もう何も申し上げませんが」
「何故、それほどまでに落ち着いてられる。まだ一六歳と聞くが、寝室に送られた理由を解せぬほど、幼くはないだろうに」
 底意地の悪さから出た言葉というより、王太子の純粋な疑問だった。そして彼はその答えに驚愕する。
「幼く、ですか。そうですね、わたくしは童女ではありませんもの。もはや生娘ですら――」
 春陽は途中で台詞を区切り、王太子を眇めた。彼は明らかに瞬間、絶句したようだった。レセンドは、そのような答えを全く予想していなかったのだ。ガクラータ王国の恋愛は比較的おおらかであるが、それでも王女には純潔を求められる。勿論、秘した恋をする者はあるだろうが、春陽がその手の軽はずみなことをする人間には思えなかった。
 想像以上の反応に、春陽は溜飲の下がる思いがした。つまるところ、彼女が王太子に対して感じていた不快感は、傲慢さだけでなく、彼の余裕であったのかもしれない。
「……驚いたな」
 ようやくそう言った王太子は、しかしなお驚きの面をもって、公主の顔を見つめ直す。少女らしかぬところは処々で見られたが、まさか。そんな信じ難い王太子の想いを込めた視線だった。
「深窓の姫君ではないということだな」
「恥じてはいません」
 公主の双眸には濡れた輝きがあり、それに王太子は縛される。それはそれで面白いという考えが、彼に再び笑みを浮かばせた。
 レセンドは春陽を寝台にゆっくりと仰臥させた。暫くは飽きずに済むかもしれないと胸中で呟き、誇り高い公主をその腕に抱いた。
 二十四歳のレセンド王太子と一六歳の春陽公主の邂逅であった。
 しかし双方共に運命の分岐点に立ったその間、春陽の黒曜石の瞳に映っていたのは己に覆いかぶさるレセンド王太子ではなく、想いを馳せるのもまた彼ではあり得なかったのである。
 虚ろな視線は空を彷徨い、危なげに揺らめく燭台の一点だけに留まった。
 灯火に影を造るのは懐かしい青年だった。
 陸をかなり離れたせいであろう。開かれた格子戸からはすでに炯紺の潮の香りはせず、運ばれる潮風もまた見知らぬものとなっていた。
 春陽はただ、ひそやかに吐息を漏らした。
 何処に居ても何も変わらないのは、もはや漆黒の闇とその先に瞬く星だけと思われた。
 不意に泣きたくなり、そうすることがまるで守護となるかのように、声なき声でその名を囁く。
 ────吉孔明兄さまと唇は綴った。



*     *     *



 陽香の国は皇帝の直轄地である天領と、自治を委ねられた諸王の治める王領とに分かたれる。天領には皇都・栄屯や軍都・高景などがあり、王領は櫂・明・斉・桓・邦・緯択・則の七領である。
 諸王ともなれば、宰相に準じるくらいの発言力が得られる。と同時に領地の民からの税が入ってくるので豊かにもなる。故に皇帝たちは臣下を諸王に封じることを最大の褒賞の一つとしていた。
 泰一族の男・泰義伯(たい・ぎはく)が櫂王となったのも、忠義の褒賞であった。炯帝が先帝の旧勢力を排除する際に尽力し、また彼の妹の桃珠(とうじゅ)が炯帝の皇子時代からの妻であり、その即位後には武妃となったことから、義伯は櫂王に封じられた。
 緋楽公主はその炯帝と桃珠の娘であり、泰義伯には姪に当たる。そのため、彼女が紀丹宮脱出後に頼ったのは、義伯が治める櫂領だった。
 公主たち一行は、一昨日無事に櫂領の城下町・莱玉(らいぎょく)に到着した。
 櫂王の起居する櫂城は莱玉の北にある。櫂城は数ある王城の中でも、堅牢として有名であった。それは東方の守りに重要な軍都・高景を彷彿とさせるほどである。しかし今回、櫂城はその能力を発揮することはなかった。そうというのも、今回の戦は反乱した異民族ではなく、海を渡って来たガクラータ王国だったからだ。
 櫂領は海との間に帝都・栄屯を挟む内陸側にあり、皮肉にも栄屯が盾になったため、ガクラータ人が入り込むことはなかった。また朝楚との間には高く険しい牙西山脈が連なり、その進路となることもなかった。櫂領が戦場となることがなかったのだ。無論、櫂王は軍を率いて皇帝の元へ馳せ参じたが、軍の損失は大きくなく、そして櫂王自身が無事であったので、櫂領は他領に較べ緊張に欠けている感さえあった。
 この地に吉孔明皇子が辿り着けば、少なくとも戦いの準備は整えられる。
 吉孔明と櫂王は血の繋がりがあるゆえに、櫂王は吉孔明のために働くことを厭わぬであろう。
 反乱の象徴に最も適している春陽が、自身ではなく吉孔明をそれに立てたのは、おそらく正しかったのだ。生き残った炯帝の子供は、吉孔明、緋楽、赫夜、春陽の四人。その中で、櫂王から最大の忠義を引き出すことは吉孔明にしか出来ず、その同母妹である緋楽は吉孔明を補佐しなければならない。赫夜は異国で間者の真似事をするには激情家であり過ぎる。そして春陽は、恰も敵陣に乗り込むために育てられたかのように、さまざまな技能を修得していた。

 ──春陽がレセンドの腕に抱かれ、久しく訪れなかった眠りについた頃。緋楽の身体はまだ牀上にはなかった。櫂城の一角にある来賓の寝室をあてがわれたのだが、身体は疲れているというのに、頭が妙に冴えて眠られないのだ。
 侍女たちがすでに下がった部屋に燭台を一本だけ立てて、果実酒を手にし考え事をしていた。まだ到着していない兄・吉孔明のことや、異国に渡った春陽のこと、そして赫夜のこと。赫夜は斉王と親戚なので、斉領に向かったはずだ。春陽は二人一緒に捕まることを恐れて、二人を別々のところへ逃がそうとしたようだ。そしてその異母妹の配慮は杞憂に終わらなかった。
 どうやら赫夜が向かった斉城は、ガクラータ王国の本拠地と化したらしいのだ。
 緋楽が櫂城に到着する一日前、斉城は墜ちた。斉王は捕らえられ、陽香総督に選出されたソヴァンス公爵が斉城の主となった。現在、斉領の城下町にはガクラータ人が溢れているという。つまり、赫夜は落ち延び先を失ったということだ。赫夜たちがそのことを知らず、斉領に足を踏み入れてなければよいのだが……。
 緋楽には、赫夜の精神状態も心配だった。赫夜の勘はよく当たるし、壺帛賢妃が父帝に報われぬ愛を捧げていたことも緋楽は知っていた。確かに壺帛賢妃は自害したのだろう。心の支えを失った赫夜の嘆きが気になった。
 緋楽は大きく溜め息をついた。赫夜のように泣き喚いたり、怒りに我を忘れたりすることはないが、春陽のように高い位置から物を見渡すことの出来る冷静さを、今は欠いていた。身内の不幸に客観的になれない。
 二度目の溜め息を漏らそうとして、はっとして緋楽は止めた。
 騒々しい気配と、慌ただしく鳴る沓音。緋楽は耳を澄ませてみたが、何が起こっているのか、どうにも分からない。
「誰か、ここに」
 寝室の外に向かって呼びかけると、寝ずの番についていた侍女が数人、提灯を片手に速足で姿を現した。誰かが燭台の数を増やし、部屋は明るくなった。
 彼女たちに様子を見に行くように命じて、緋楽は再び耳を澄ませた。悪い報せではなかろう。外の気配はそれを感じさせない。
 そのとき、ある可能性を思いついた。
「まさか兄上がお着きになられたのでは……」
 独白すると、それは確信に変わった。きっとそうに違いない。
 しばらくして、使いに遣った侍女が戻ってきた。緋楽はいても立ってもいられなくて、椅子から立ち上がった。侍女の報告は果たして、吉孔明到着の報だった。
「どのような御様子でいらした」
 喜びと安堵に、先程までの鬱を感じさせない口調で緋楽が問いを重ねると、疲れているようだし、小さな怪我もあるが、まず元気な様子であるという答えが返ってきた。今は櫂王の主治医に手当を受けながら、早く妹に会いたいと言っているらしい。
「今すぐ参ります。用意なさい」
 深夜であったが、彼女は迷わずそう言った。



「兄上」
 なるべく穏やかにそう声を掛けると、彼ははっとして顔を上げた。吉孔明は身分を偽るため、何処にでもいるような、ざっくりとした亜麻の上下の旅服を身につけていたので、緋楽は始め、それが兄だと気づかなかった。
 吉孔明の頬は髭がはこびり、肌は赤く焼け、髪は風雨に晒され、ばさばさになって艶を失っている。全体的に埃や砂がこびりついていた。よほど逃亡が困難であったのだろうと思われる。ぱっと見にはあの凛々しい吉孔明皇子だとは緋楽でなくとも気づかぬであろう。しかし普段は帽の内に隠されている乱れた前髪の奥から、涼しげな目元が現れた。同様に、すっと通った眉目や意志の強そうな頬の線は隠せはしない。
 吉孔明はとっくに手当てを終えていたようだが、身体を休ませる前に妹と話をしようと、ここで待っていたようだ。
「ご無事でようございました」
 そういうと、吉孔明は微かに笑った。彼にしては気弱な表情だった。
「お前もな」
 豪胆な見かけとは違い、どちらかといえば吉孔明は学者肌の男だった。武器を手に取るときは勇ましく、またその姿は独特の美しさがあるといわれるが、やはり彼は学問の方に親しみ深い。彼の強さは、勇猛さという種類のものではなく、自分を律するという方面において発揮されていた。
 そんな兄に不似合いな、戦いの際に受けただろう太刀傷を見つけて緋楽が眺めていると、女が見るものではないと彼は笑った。
 苦笑であろうと、やっと笑えたことで、少しはいつもの彼に戻れたのであろうか。吉孔明は、お互いに触れることを恐れていた話題を口に登らせることに成功した。
「ガクラータへ渡ったのは春陽だと……」
「……ええ」
 感情を抑えて緋楽は頷いた。
「そう……か」
 それに対する兄に言葉はそれだけ。しかしそう紡ぐ吉孔明が苦しげだったのを、緋楽は見逃さなかった。その口調の何処にも、昏い絶望以外のものを見いだすことが出来ず、彼女は胸が痛んだ。
 春陽へガクラータ王国の要求を知らせる使者を送った時点で、兄はすでにこうなることを予想していたのだろう。それでも彼は皇子の責務を放棄はできなかった。
 吉孔明はどのようなときも理性を手放さない。春陽にしてもそうだった。
 しかし二人は、お互いのことを想うときだけは狂おしい程に切なげだった。
 ──そう、二人は恋仲だった。
 市井においては、異母兄妹の交わりは外聞が悪いとはいえ禁忌ではない。しかし皇族、しかも直系である彼らの恋はあまりに常識外れで、結ばれて良いものではなかった。吉孔明には政略とはいえ妻もいる。もしふたりの関係が世間の知るところになれば、彼女たちは噂に押し潰されてしまうだろう。それははっきりと醜聞以外の何物でもなかったのだ。しかし想いは変えられずに、幾度となく逢瀬を重ねていたのを緋楽は知っている。
 ただ耐えるように吉孔明は瞼を閉じていた。
 そうしなければ、溢れようとする感情を止め切れない。
 彼は、春陽を妹と思ったことなど一度もない。もともと、異母兄妹などというものは、庶民ならともかく皇族において、もっとも他人に近い血縁者にしか過ぎない。実際、春陽と吉孔明のもとには、皇太子である陽征を追い落としたいと願う者たちが、あなたこそは皇帝に相応しいと、連日のように甘い毒を囁きにきていた。これで仲良くできる筈もない。
 だが、あるときを境に、春陽と吉孔明は真の家族となった。家督争いに巻き込まれるのを恐れ、陽征と吉孔明と春陽は、互いに同母の元に生まれた兄妹のよう扱い、けっして争わぬという誓いを結んだのだ。
 それからというもの私的な場面では、三人は真の兄妹であるように振舞った。このころの春陽はまだ一三歳。しかし吉孔明の心はすでに春陽のものだった。春陽に兄と呼ばれるようになって、彼の片恋の苦しみは増した。自制心が灼き切れて想いを伝えたのが、去年。春陽はたった一五歳で、吉孔明は二十六歳にもなっていた。
 愚かな恋であった。分かっている。
 自分だけでなく、春陽までも損ない罪に陥れるものであると――分かっていた。分かっていて、躊躇する春陽を恋に引き擦り込んだ。想いが通じていると知ってはもう、自分をとどめてはおけなかった。
 この恋が辿り着く先が、無意の倖せなどではなく別離であると覚悟していた。
 それでも、こんな結末を迎えるはずでは断じてなかった。
 愛しい娘はもはや手の届かぬ敵国にある。
 わたしはどうしたらいい。君なしでこの国を背負うことが出来るのか。
 無言となった兄を見て、緋楽は悟った。
 彼は変わってゆく。
 彼は強くなるだろう。怒りを力に代えて、ガクラータ王国に刃を向けるだろう。
 しかしそれは哀しかった。








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