春陽の章 [2]





 気持ちのよい涼やかな風が寝室を通り過ぎていった。差し込む陽光は柔らかく、穏やかである。春陽は 天蓋付きの広い寝台から身体を起こした。
「姫さま、今日は御加減がよろしゅうようですね」
 心地よさを楽しんでいた春陽に、無邪気な微笑みで声を掛けたのは侍女のエーシェだった。年齢は花 鳥と同じくらいなのだろうが、童顔のせいか春陽と外観年齢はさほど変わらない。亜麻色の髪を他の侍 女のようにまとめず、ふんわりと肩口に垂らしている。榛色の瞳が、彼女を優しげな、というよりおっとりした ように見せていた。
 エーシェは寝台の方に近寄った。春陽の傍らに控えていた花鳥は、しかし異国人である彼女が近づい てきても、いちいち緊張したりはしなかった。
 相手がエーシェだったからである。エーシェは人懐こい性格で、世話好きだった。言葉の通じない花鳥 が、手振り身振りで意志の疎通を図ろうとするのを、辛抱強く待ってくれる唯一のガクラータ人だった。
 最初に春陽のことを「姫さま」と呼ぶことに決めたのも彼女である。陽香が滅んだ以上、もはや公主とも 呼べない春陽を、誰もがどのように扱ってよいのか頭を悩ませていた。結局はエーシェに倣い、皆が彼女 を自国の高貴な未婚の女性と同様に接することにしたのだ。
「お顔色も良くなられました」
 ほっとしたようにエーシェは春陽を見る。春陽は悪意なく、物怖じしない彼女に好意を持っていたので、 僅かに表情を和らげた。ここ一週間で、そうと分かるほどに春陽は回復していた。
「心配掛けたわね」
「いいえ。お元気になられて何よりです」
 ガクラータの地を踏んで間もなく、春陽は風邪を引いた。それ自体は軽いものだったのだが、蓄積され た疲労と相まって、一度寝台についた後、起き上がれなくなってしまったのだ。
 春陽は今、ダン伯爵フラント=カサンナの都にある別邸にいる。ダン伯爵は余計な詮索をしない男であ ったので、春陽に与える屋敷が建て終わるまでは、彼に預けておこうとレセンド王太子が考えたからである 。
「エーシェはもともと第二妃に仕えていたのだったわね?」
「はい」
 エーシェはこっくり頷いた。
 春陽につけられた侍女のほとんどは、元は王太子つきの者であった。しかしエーシェは、王太子の母親 ――つまり国王キーナ三世の第二妃――の侍女だったのだ。
「貴女がいてくれてよかった。ガクラータは分からない事ばかりですもの、貴女みたいに気軽に話せる人が いなくては、困ることばかりだったわ」
 気を許した相手にしか見せない春陽の自然な笑みに、エーシェは恐縮して、赤くなった。年上には見え ない可愛らしい仕草だった。
 いつかこの娘を裏切る日が来るのだろ分かっていても、このように和やかな気分は本当に久しく、春陽 は気分がよかった。
「花鳥。貴女も良かったわね、エーシェの様な娘がこの国にもいて」
「本当に」
 春陽の胸中の計画を知らない花鳥は心から同意した。ガクラータ人は恐ろしい者ばかりだと思っていた が、この娘は優しい。公主さまのために毎日花を生け、お身体の心配をしてくれる。わたしにも親切だ。
「花鳥もアーマ語を覚えなくてはね」
「そうですね。一生この地で暮らさねばならないのですから」
 少し寂しそうに花鳥は応じた。――春陽は、ふたりに気づかれないようにそっと吐息を吐く。
(そう、わたくしたちは陽香に帰れない。けれど、長くこの地に留まることもないのよ、花鳥)
 声にならない告白。
 春陽の成そうとしていることは、花鳥までを巻き込む。きっとわたくしのせいで貴女は死ぬのでしょう―― それでも。
「わからない言葉があれば、わたくしに遠慮なく聞けばいいわ」
 今はまだ花鳥には悟らせない。何も知らず忠義を捧げてくれる侍女に対して申し訳なく思っておきなが ら、胸の裡で冷たく計算する己を、春陽は嗤った。
「そうですか。……では」
 遠慮がちに花鳥が口を開いた。躊躇しながらも公主の好意に甘えたのは、前から知りたいと思っていた 単語が幾つかあったからであるらしい。
「あの、『ラウタ』とは陽香語ではなんと……?」
 春陽は僅かに眉を顰めた。
「それは誰から聞いた言葉なの」
 言葉に鋭さが混じったことに気づき、花鳥は己が何か悪いことでも口にしたかと心配しながらも、答えた 。
「ガクラータの侍女たちです。わたしに向かって言っているようで」
「そう」
 静かに春陽は目を伏せた。そして次に黒曜石の瞳を見開いたとき、異変を感じてこちらを見守っていた 侍女たちを、少女とは思えぬ炯帝譲りの眼差しで見据えた。
「よくお聞きなさい」
 そうして豊かな黒髪を肩口から払いのけ、一呼吸入れる。部屋が静まり返ってから、おもむろに口を開 いた。
「“ラウタ”なんていう単語を耳にするとは。 ──確かにわたくしはお前たちの国に滅ぼされた国の公主。『 野蛮な色付き(ラウタ)』とガクラータの民人がわたくしと、わたくしの国を貶めても仕方のないことかもしれ ない」
 侍女たちに動揺が走った。まさかこの姫の耳に入るとは。
 ラウタとはアーマ大陸の人間が、四成大陸の人間を嘲るときに使う言葉だった。彼らが四成大陸をヤナ 大陸と呼ぶのも同様である。
「それでもわたくしはお前たちの主人です。お前たちなどに見下されてよいわけがない」
 激した訳ではなかった――けっして。
 侍女たちは戦慄した。なんて高圧的なのであろう。国と喪った公主が、何故こうも誇り高く堂々としてら れるのだ。
 春陽はけして苛烈な性格ではない。その言葉は二番目の姉のものであって、彼女のものではなかった 。春陽は一度も言葉を荒らげぬまま、淡々と己の誇りを掲げる。激しさとはまた違った静かな力だった。そ んな彼女の性質は青皇后春耶譲りである。
「公主さま。如何なさいました……?」
 花鳥は戸惑ったが、呟くだけに止め、女主人の行為を中断させることはなかった。もとより止められると は思っていない。
 春陽はさらに寝台から抜け出した。無言のまま、素足で侍女たちの前までゆっくりと歩く。彼女たちは全 て、元々白い肌を更に蒼白にさせ、硬直したまま身じろぎも出来ない。
 春陽の整った顔立ちに表情だけがない。それが不安を煽る。
「よい機会なので言っておきましょう。誰に命じられたかは知らないけれど、わたくしの一挙一動を見張る のはおやめなさい」
 明らかに狼狽した者が数人。彼女は見逃さず、その顔を記憶する。
「わたくしが気づかないとでも? そこまで愚かですか、お前たちは」
 軽蔑したような一瞥を台詞とともに投げてから、もうそれきり興味が失せたかのように、彼女はあっさりと 侍女たちから背を向けた。
「エーシェ」
「あっ。は、はい」
 呆然と事の成り行きを見ていたエーシェは慌てて返事した。
「裸足で歩いたから汚れたわ。湯をもって来てちょうだい」
 承知しましたと、彼女は逃げるように退出していった。
 残された侍女たちは居心地悪い雰囲気に耐える羽目に陥った。しかしそれは自業自得で、むしろ咎め のない幸運を喜ぶべきといえた。一方花鳥は、自分の質問がこの異変を招いたことは理解しつつも、そ れが何故かは分からないまま、とりあえず沈黙を守っていた。その彼女に春陽がふと思い出したように話し かけた。
「花鳥。貴女、わたくしが毎晩教えるから、早くアーマ語を覚えなさい。いいわね?」
「そんな、畏れ多いことを……!」
 驚いて、花鳥はそう言ったが、しかし実際のところ、いつまでも公主に通訳してもらうわけにはいかない。 そして花鳥にアーマ語を教えられる者といえば、春陽しかいなかった。
 困惑してこちらを見る、花鳥の物言いたげな視線を無視して、公主は宣告した。
「次に“ラウタ”などと呼ばれたら、頬を平手打ちでもしてやりなさい。わたくしが許します」
 春陽公主の表情も口調も平生通りであったが、花鳥には長年の経験で、女主人が実ははっきりと怒っ ていることが分かったので、それ以上の言及と“ラウタ”の意味と問うことの両方を諦めた。



*     *     *



「わたくしに、今晩夜会に出席しろと仰せなのですね……?」
 穏やかに問い返した黒髪の貴婦人に跪くのは、レセンド王太子からの使者だった。
 この地に着いてから三週間。その日、朝食を摂り終えた春陽の元に、初めて王太子からの接触があっ たのだ。待ち焦がれていたといっても過言ではない。使者は招待状と共に、幾つかの贈り物を携えていた 。
「おっしゃる通りでございます」
 初めて目にするヤナ大陸の姫を前に、極度に緊張しながら使者はやっと、そうとだけ言った。彼にとって“ ラウタ”は恐れの対象だった。
 商人以外の多くのガクラータ人が、黄色人種を見たことがない。文化の水準が天と地とも掛け離れて いると思い込んでいる者がほとんどだ。実際には陽香とガクラータ王国では、そう文化的な優越はないの だが。
「なんて急なお話……!」
 皇族に相応しい、優雅でありながら、おおらかな口調で微笑んだ。僅かに安堵して、ぎこちないながら も使者の若者も笑顔に応じた。
 よく見ると、この公主はなんと気品がある雰囲気を纏うのか。
「あと、この花を貴女さまへとお預かりしております」
 使者が手渡そうとしたのは、まだ朝露に揺れた薔薇の花束だった。春陽はそれを見つめて、
「まあ、綺麗なこと。 ──けれど、残念ね。これは殿下にお返しして」
「……は?」
 事もなげに言った春陽の台詞に、使者は目を見開いた。次に自分の腕の中の花束と見比べる。見事 なまでに鮮やかな真紅の薔薇。ガクラータの上流階級の人々にとって、男が妙齢の女に薔薇を送る意 味はただ一つ。
 その意を受け入れるかはまた別として、一応受け取るというのが男の誠意に対する礼儀とされる。まし ては贈り主が王太子とくれば、春陽の行為に使者が驚いたのも無理のない話だ。
「しかしながら……!」
「いいのよ。それと言伝を頼めるかしら」
 説き伏せようとする使者の言葉を遮って、春陽はそう問うた。
「言伝でございますか」
 春陽は遠い目をした。彼女自身、無意識に演じることを忘れ、瞳を思い出に染める。
 心に浮かぶのは、穏やかな声。優しい声。深い声。わたくしをただただ酔わせ、涙させる――今は遠く、 触れることのかなわぬ声。
 ──春陽殿は、土に根を伸ばしたままの花が好きなのですね
「わたくし、手折られた花は受け取れませぬ、と」
「姫さ……」
 本当にそのようなことを言ってよいのだろうか。
 あきらかに戸惑った使者の声を、しかし春陽は無視した。
 演技でも駆け引きでもなく、それは本音の言葉だった。春陽に潜むどうしようもない弱さが、彼女にそう 言わせた。しかしレセンド王太子は、わたくしが敵国の王太子を拒んでいる故の行動だと誤解してくれる だろう。
 なにしろわたくしは“誇り高い公主”なのだから。
(それにしてもやっとね)
 三週間ぶりに王太子に会える。急ぐつもりはさらさらないが、何事も起きない日々に飽いてもいた。
 身体もすっかり良くなっている。もともとか弱いわけではない。レセンド王太子には舞を嗜んだ結果と説 明しているが、春陽の鍛えられた身体は紛れもなく、武芸に慣れ親しむ者のものである。王太子がそれ を看破できなかったのはやはり、武に通じた女というものを見たことがないからだろう。


 それからは、目が回るような忙しさだった。
 それまであまり姿を見せなかったダン伯爵夫人によって、慌しく春陽の社交会デビューのための準備が 執り行われた。春陽が指摘した通り、王太子の招待は本当に急であったのだ。それでもなんとか間に合 いそうなのは、王太子があらかじめ春陽の衣装だけは用意しておいたからだ。あとは春陽の身体のライン に合わせて、細かく仕立て直すだけで良かった。
 ドレスは王宮で流行している派手ない色使いのものでも、錦糸の豪華な刺繍が織り込まれたものでも なかった。むしろ古典的なデザインである。色は柔らかい純白で、胸元はきっちりとレースで固められてい る。裾は膨らまず、広がらず、上品に床を這う。サッシュは真珠をあしらったもので、ドレスにそれ以上の 過剰な装飾はない。ただ、耳朶と胸元を石榴石が彩っている。
 白を基調としたそれは、春陽の持つ黒の色彩によく映えた。異国人の春陽を、ガクラータ風のドレスを 纏って違和感がないどころか、これほど美しく仕立てあげたこのドレスは、王太子の趣味の良さを証明し ているといえた。
 部屋では羨望の溜め息が波のように広がった。春陽をラウタと貶した者たちもが、思わず見とれていた。 エーシェもまた、うっとりと春陽を称賛した。
 エーシェは以前、レセンド王太子の母親──第二妃ルカ──に仕えていただけに、王太子のことを見 る機会が多かったので知っているが、彼が相手にする姫君たちは例外なく美貌を誇る者ばかり。その彼が 異国の公主をダン伯爵の別邸に連れ帰ったと聞いたときは、数多の美女たちに飽いて、珍しいものでも 求めたのだろうかと思った。
 実際に見ればそれが勘違いだと気づいた。春陽はけして並の容貌ではなかったし、もし十人並みの顔 立ちであったとしても、王太子はやはり公主を望んだだろうと思う。何故ならエーシェが春陽に惹かれたの も顔だけではなく、張りつめた緊張感を身に纏う、神秘的なその眼差しだったからだ。
 そんなわけで、エーシェは春陽を主人として好いていた。だから純粋に春陽を称賛することができる。た だ難をいえば、春陽の美しい髪を、もう少し短くしたかったのだが。なにしろ、踵まであるその髪はガクラー タにおいては長すぎる。
 春陽や二人の姉公主が髪を長く伸ばしているのは、それが陽香と皇帝に対する忠誠の証であるからだ 。炯帝の娘は生まれたときからそう定められていた。春陽は事情を説明できるはずはなかったが、皆は勝 手に異教の教えと思い込んだらしく、無理強いはしなかった。
 ガクラータの国教・サチス教は現在大きな派閥もなく、異教が入り込む恐れもない故に、異教徒にも 寛容なのだった。
 最後の仕上げに髪飾りをつけられたところで、部屋を訪問する人間がいた。
「お館様がおいでです」
 ここでいうお館様とは、ダン伯爵フラント=カサンナのことである。彼は現王の第二妃ルカの兄、つまりレ センド王太子の伯父という縁から、春陽の後見人となっている。今日の夜会は彼にエスコートされること になっていた。
「準備は終わりました。入っていただいて」
 春陽は椅子から立ち上がり、腰を屈めて待った。ガクラータにおける貴婦人の所作は、付け焼刃とはい え、一応学んでいる。
「伯爵閣下におかれましてはご機嫌麗しゅう」
「姫様にはこの度のこと急でございましたな。なにぶん田舎貴族なものですから、不自由のない支度が出 来たか少々不安です。何かありましたら遠慮なく申しつけくだされ」
「勿体無いお言葉です」
 春陽は目の前の紳士に微笑みかけた。カサンナ家の家系なのか、王太子と同じ銀髪に白髪が混じっ た落ち着いた男性で、確か五一歳。 春陽は王太子の妻になるわけでもない、たんなる寵姫に過ぎず、 しかも敗国の公主であったが、フラントは彼女を軽んじることはなかった。むしろ立派な後継人としての責 務を果たし、春陽を丁重に扱ってくれている。内心でどう思っているのかは知れなかったが、ありがたいこと には変わりなかった。
「そろそろお時間でしょうか?」
「いえまだ少し。ただ、宮殿へ行く前に知りおいていただくことがあり、参りました」
 フラントの顔が少し固い。言いにくいことなのだろう。神妙に言葉を待つ春陽へ、彼は言い含めるように 告げた。
「レセンド王太子殿下には、正妃と第二夫人がいらっしゃる。すでにお聞きされているかと存ずるが」
 春陽は髪飾りが乱れぬように軽く頷く。
「存じております」
 正妃・レイナ=グローヌ、そして第二夫人・マーサ=リューダ。
 春陽にはなんとなく彼が何を言いたいのか分かってきた。今夜の夜会は王太子の住む宮殿で行われる のだ。妻である彼女たちが出席せぬ筈がない。
「とりわけ、第二夫人マーサさまにはお気をつけられよ。姫様のことをひどく意識しておいでだ。国王陛下 もご列席される。目立たぬよう注意されるがいい」
「――では、わたくしを見張るよう、侍女たちに命じたのはマーサ様の方なのですね」
「まさかそのようなことは」
 突然の春陽の切り替えしに、フラントは貴族的な微笑みでそれをかわした。だが胸中穏やかではなかっ た。まさに彼女の言う通り、第二夫人マーサが春陽の侍女の大部分を掌握していたからである。だがどう して春陽は見張られていることに気づいたのだろう。
 春陽の方といえば、はじめから答を期待しての問いではなかったため、それ以上は追及かった。ただ彼の 立ち振る舞いに確信を強めただけである。
「そう。わたくしの勘違いだったのかもしれませんね。わたくしはただ一時の寵を受けただけの存在。夫人の 座を狙っているわけではないのですもの。マーサ様のご不興をいただく理由もありませんものね」
 フラントは王太子に近しい立場の人間である。彼の反応を探るため、春陽は念のためこんな台詞を投 げかけてみた。果たして、彼は笑顔の中にも少しばかり苦々しい表情を浮かべた。
「そのお言葉、信じてもよろしいか」
「もちろんです」
「――ならばよろしい。貴女は王太子殿下を受け入れてはならない。それは殿下だけでなく、貴女をも 巻き込む政変となりかねない。心得られよ」
 勿論、それは第一に王太子を案じての台詞だったろう。しかしそれは春陽に対する真摯さも含まれてい た。案ずるような眼差しがその証拠だ。
 彼の思考は偏っていない。希有なほどに、彼は偏見や独断から無縁の人物に思えた。世の常を知りな がら、道理をも知る人だ。無論、僅かな時間で確信することは危険だが、春陽はこの手の直感を外した ことはない。思えば、初めて会ったときから、彼は春陽を見下さず、自国の貴婦人と同様の扱いをしてき たのだ。
 ダン伯爵は王太子の最大の擁護者だ。彼は警戒すべき人物だ。しかし彼女は伯爵の人柄を好ましく 思ってしまった。
「ご忠告感謝いたします」
 自分が王太子を暗殺すれば、己を案じてくれるこの眼は憎悪に染まるのだろう。しかし今ある彼の真 摯な眼差しに、春陽は深々と頭を下げた。



*     *     *



 王太子とその妻たちが起居するシュンナウト宮殿。その中のライトアルハウスで夜会は催される。
 今夜の名目は親睦会である。しかし勿論それは表向きの理由。招待客で、陽香の末の公主が出席 することを知らぬ者はいないのだ。形式の上では、彼女の出席は非公式。座を治める国王が春陽の存 在に気がつくことはない。
 しかし実質、これはお披露目であり、春陽がガクラータの社交会の一員となる。
「茶番だな」
 レセンドは、自室での支度を終えた後、そう呟いた。
 春陽は貴族ではないし、ガクラータ人でさえ、ない。こうした馬鹿げた手順を踏む必要がどこにある。し かし、王太子の寵姫として囲うならば、不文律に従わぬわけにはいくまい。
 王族の、正式な妻でない寵姫は、しかし日陰の存在というわけではない。
 勿論その地位は寵が離れると途端に潰えるものの、その座にあるときは、時に人心を操り、政治を動 かす。愛人ではあるものの、彼女たちに、ほとんど例外なく卑しい身分の者はいない。美しさと賢さ、そし て寵姫であることの誇りが、彼女たちの武器である。
(面倒なことだな)
 彼自身、二人の妻の他に三人の寵姫がいるが、春陽にそんなことをさせるのは特に煩わしさを感じる。 レセンドが春陽を寵姫にしようとするのは、そんな恋愛ごっこをしたいからではないのだ。
 しかし、同時に楽しみもある。
 今回の宴で、貴族どもがどのような目で春陽を見、春陽がどう立ち振る舞うか。半ば答えが見えなが らも、王太子はそれを楽しみに思った。
 彼は小さく笑みを浮かべ、寝台の枕元に無造作に置かれた花束に目をやった。春陽に使者を送り出し てから僅か一刻と半の後に、再び己の元へ返ってきたのだ。わたしが手ずから庭園から切り取ってやったと いうのに。
 送り返された理由を聞いて、レセンドは彼らしくもなく、声高らかに笑った。
 春陽の弱さや心のこまやかさを知らぬ彼は、春陽がどのような顔でそれを言ったのかが想像できない。
 それゆえ春陽が予想した通り、はっきりした嫌がらせか何かだと彼は認識する。
「それにしても“手折られた花は受け取れぬ”……とは」
 まるでただの少女のようなことを言う。まだ一六とはいえ、あれは女だ。
 もうけして少女とはいえぬ。
「父上も惜しいことを………」
 虚栄心を満たす女ばかりを侍らせて何が面白いのか。王妃も二人の側室も、見事に自分だけでは何 もできぬ女ばかりである。 無論、もし請われたところで、今更あれを返すことはしないが。
 しかし人のことは言えない。自分の正妃もまた、そんな女だからだ。
 レイナ=グローヌもまた、春陽同様に異国の王女だ。ランギス王国の王妹殿下である。ランギス王国は 、ガクラータ王国とは、ラソルの運河を挟んでの隣国で、南の大陸から渡ってくる香辛料のまさに五割を 手にする貿易国だ。
 二年前、ガクラータ王国がランギス王国の王位継承権を得るため、強引に二十一歳になる王妹を王 太子の正妃として娶った。武力で制圧するよりも、 この方が効果的に、そして確実にランギス王国を意 のままにできるようになるからである。
 これで子供が生まれれば、ガクラータ王国の目論みは成就する。しかし、二年たった今でも、レイナに 懐妊の兆しはない。強制的に娶られた王女は、王太子が来るとすぐに泣き出すので、王太子は辟易し てついつい寝室から足が遠のくのだ。恨みがましい視線や、その言動に苛々する。この際、王子でなく王 女でもよい、早く子供が生まれぬものか。さっさとレイナを厄介払いしたいものだ。
 繊細さや儚さは確かに美徳かもしれない。だがそんなもの、何の役に立つというのか。時に彼女たちは、 自分の首を締めるような自虐的な行為に走る。あっさり絶望するなど見ていてつまらない。どうせ恨むの なら、春陽のようにしたたかに、ともすればこのわたしに毒を盛るような気概を見せたらどうなのだ。
 王太子妃でランギス王女という、身分は申し分がないというのに、そんなことだから宮廷内には彼女に 居場所がない。数ある夜会に出席しないことなど頻繁である。
 だから、王太子は今夜も自分の正妃が出席しないと踏んでいた。
 代わりといっては何だが、第二夫人のマーサが、彼女の分まであちこちの宴に顔を出している。大輪の 薔薇を思わせる毒々しいまでの華やかな美貌は、何処にいても際立って目立つ。
 けれど今夜の主賓は彼女ではなく。国王やその妃たちでもなく、春陽だ。
 そしてマーサは自分以外の──しかも敵と見なす女──が注目されるのを黙って見ていられるほど、 性格が良いわけでも、おとなしいわけでもない。
 王太子は底意地悪く、ニヤリとした。
 ふたりの初めての対面はどうなるのだろうか。彼は、けっこう自分が期待していることに気がついた。
「殿下。そろそろお時間です」
「わかった」
 儀礼用の剣を帯び、軽く礼服の乱れを整えた。そうしている間に、控えている従僕らの落ち着かぬ様に 気がついた。噂の公主を目にできる機会に、つい好奇心が刺激されるのだろう。普段は取り澄ましている 彼らが、一様にそわそわし、浮足立っている。
「楽しみか?」
 珍しくも機嫌が良さそうに尋ねてきたレセンドに、従僕は照れながらも肯定した。
 意外と下々の者にとってこの王太子は、仕えづらい主人ではない。理不尽にお手打ちにされることもな ければ、鞭打たれることもない。それに、よい働きをすれば目をかけてもらえる。
 それはレセンドが非常に合理的な性格をしていて、無駄なことは一切しないためであった。彼は、家臣 の忠誠心を得るために、理想的な王太子を演じることが出来た。王太子といえども、信頼できる人材で 身の回りを固めることが、失脚しないためにどれほど大切か彼は知っていた。家臣の格も、主の才覚の 現れである。
 勿論、従僕はそのような王太子の心の動きなど分からなかった。



 ライトアルハウスではすでに夜会は始まっていたが、まだガクラータ国王キーナ三世と、その妻たちの姿は 見えない。だが、話題の陽香公主はすでに会場に到着していた。
 ゆるやかな楽が奏される大広間にレセンド王太子が姿を現すと、いつもにまして強い注目が彼を包ん だ。それまで陽香の公主に気が取られていた者たちが、やっと彼女から視線を剥がし、次に関心を持った ことは、王太子が公主にどのように接しているかだった。
 問題の少女は、人垣というほどあからさまではないものの、囲まれるようにして衆目の中にいた。それを 煩わしく思ってか、会場の奥まった一角にいる。こちらからはよくは見えないが、長い黒髪で確認できた。
 ───殿下は彼女のことをどう思っているのだろう。
 王太子の傍に付き従いながら、そのようなことを考えたのは、ダン伯爵フラント=カサンナの息子である テイト=カサンナだった。ダン伯爵はレセンド王太子にとって母方の兄であるから、つまりはテイトとレセンド は従兄弟同士ということになる。
 父親は王太子から春陽公主を預かるために、結構前から都入りしていた。しかしテイトは母とともに、 今夜の夜会のために領地から都ルターゼへ四日間かけてやって来たばかりである。
 今、父親は春陽公主をエスコートし、母親は知り合いの貴婦人たちに公主のことを質問攻めされてい る。テイトといえば、母親と同じ目に遭っていたのを、王太子を見つけると、これ幸いとばかりに逃げ出して 彼に続いた。
 春陽のことなど、直接話したことすらないテイトが知るはずがないのだ。
 彼女に対してテイトが知ることといえば、彼女が陽香の公主だったということ、もともとは国王が望んだ少 女だったが、最終的にはレセンド王太子が願い出て彼のものとなったということ。後は、カサンナ家当主の 都での別邸に、現在彼女が暮らしていること。ただそれだけ。
 それにしても、殿下も物好きなことだ、とテイトは胸中で呟いた。何を好んでラウタの女に手を出すのだ 。春陽に限らず、王太子が自ら選ぶ女はことごとくテイトの趣味から外れる。皆、自意識過剰で性格も 最悪の女たちだ。まあ。とびきりの美女ぞろいなのは認めるけれど。
 テイトには一つ年下の従兄弟の考えていることはよく分からない。彼は頭が言い分、どこか醒めている。 女に関する色事にも、本心ではさほど興味を持っていないように見えるのだ。それなのに、大勢の寵姫を 侍らし、異国の姫にまで手を出す。
(何か足りないものでもあるのだろうか)
 なんとなく、そんなことを考えてみたテイトだったが、次の瞬間には否定した。あの王太子にそんなものが あるはずがない。あり得ない。
「想像していた女とはまるで違うだろう?」
「確かに」
 テイトもそれを認めるのにやぶさかではなかったので、すぐに頷いた。高貴な振る舞いは、まさに皇室。 礼儀作法の方は流石に付け焼き刃なのだろうが、それでも元々の気品と仕草で、その辺の貴族たちよ りは、よほど優雅である。
「眼だ」
 楽しそうな王太子の言葉につられて、テイトも春陽に注目した。
「眼が気に入ったのだ」
「成程」
 これにはテイトも得心がいった。
 色彩的には茶も入った黒なのだが、ふとした弾みで漆黒となる。月並みな表現となってしまうが、そんな 春陽の瞳は宝石のようだ。きらきら輝くのではなく、光までも吸い込むような深い色。
 テイトはラウタを見るのは初めてではなかったが、今まで目にしてきた者たちと比べて、間違いなく彼女は 一番見目がよい。総じて見ると、確かに美人だ。しかし、まだ少女であることと、ラウタであることは、彼に とってあらゆる美点を帳消しにする欠点でしかなかった。黒の髪や瞳はアーマ大陸の人間でもいるが、黄 色の肌はいただけない。
 レセンドらが自分を評しているのを知ってか知らずか、公主は時折、傍らにいるダン伯爵と言葉を交わし ながら、夜会を観察している。そして、前触れもなく、ふっとレセンドの方を向く。
 黒曜石の瞳が剣呑に、しかしレセンド以外にはそうと分からぬように、一瞬彼を射た。
 眼差しが絡み合う。
 その唇に刷かれた鮮やかな笑み。
 柔らかさはなく、隙も見いだせなかった。
(面白い………)
 レセンドからもまた、無意識に笑みが零れる。



(別世界とは、このことを言うのね)
 アーマ大陸――特にガクラータ王国の習俗については、戦端を開いてより、ある程度は学んでいたし、 現在彼女を庇護しているダン伯爵の別邸でも、ガクラータの貴婦人としての教育も受けている。それなり の知識と覚悟をもって臨んだつもりであった。それでも春陽は、シュナウト宮殿を目の前にしたとき、呆然と 立ち尽くさずにはいられなかった。
 ――なんと華麗な。
 その芸術を解する者なら溜め息をつく、サチス=テレスの女神と七人の神子の天井画。その周りを取り 囲む壁は細緻を尽くした漆喰細工である。また、驚くほど大きい銀のシャンデリアは昼間のような光りで、 辺りを照らしているかと思えば、大貴族でもそうそう手の出せないカーペットが大理石の床をくまなく覆って いる。
 いまでこそ王太子が起居しているが、このシュナウト宮殿は現在のアンザゲット王宮が完成するまでは れっきとした王宮だったというが、さもあらん。
(我が国を滅ぼしたのは、こういう国なのね)
 ただ敵という記号であった存在が、生々しく今、春陽の眼の前に現れているのだ。
 会場である大広間に到着すると、華やかな弦楽器の調べと、それさえも掻き消しそうなほど騒々しい 声に満ちていた。
 その出席人数にも驚かされたが、それ以上に思いもよらぬ繁雑さに目が丸くなった。これは無礼講の宴 ではなく、国王が出席する公のもの。だというのに人々は国王の入場を待たず夜会を始め、好き勝手に 口を開いている。
 無責任なものなかに、重要な政治に関わるものを混ぜた噂話をする、中年の貴婦人たち。熱心に口 説く男性と、まんざらでもなさそうな女性。難しそうな顔で話し合う主従の姿もあった。
 社交会とは貴族にとって、娯楽であり政治、親睦であり陰謀なのであった。陽香でのそれとは比較にな らぬほど、その性格は際立っている。
 しばし自失した春陽の意識を引き戻したのは、周囲の強い注視だった。嘲笑交じりの囁きや悪意が絡 みつくような視線は、春陽の神経を引っ掻いてゆく。
 彼らにとって自分は侮蔑の対象である人種の、それも敗国の公主なのだ。少しでも何か失敗すると、 それだけ祖国が更なる嘲笑を受ける。
(しっかりしなくては)
 今、己は敵地只中にいるのだ。
 春陽は意識的に肩の力を緩めた。大きく深呼吸すると、少しだけ余裕が出てくる。
 これまで周囲の人々の視線に晒されながらも、誰にも声をかけられていなかった春陽だが、突然ひとり の男性が近づいてきた。
「ダン伯爵。そちらのレディを紹介してくれないか」
 軽薄な調子で低い声で問いかけられ、自分の手を引くダン伯爵フラント=カサンナの手が強張る。春 陽は用心深くその人物を観察した。
 赤みの強い金髪に、同色の瞳。中肉中背だが、居住まいは悪くない。傲岸な眼差しさえなければ、 優雅といえる物腰だった。
「これはアルバート殿下。ご機嫌麗しゅうございます。ご挨拶が遅れ、申し訳ございません。こちらは王太 子殿下の寵をいただくお方です」
 アルバート王子! いきなりの大物の登場に、フラントの緊張の理由が分った。彼は第三妃セリースの 息子であり、レセンド王太子とは腹違いの弟である。王太子との不仲は聞いているため、春陽も慎重に 対応しなくてはならないだろう。
「春陽でございます。おめもじ出来て光栄にございます」
 茶番だ。この場の誰もが、春陽が陽香の公主だと知っている。
「貴女が春陽姫か」
 アルバートはじろじろと春陽を眺めた。舐めるような視線に耐えがたくなってきた頃、彼は舌打ちした。
「ラウタの女を抱くなんて、兄上もよくやるよ。……にも関わらず」
 後半はよく聞き取れなかった。
 春陽は人前でのあまりにあけすけな言葉に内心で驚いて、フラントを窺った。自分への侮蔑はどうでも いい。ただ、王子ともなれば、人前での傍若無人なやり取りも許されるのかと疑問に思ったのだ。しかし少 しだけ顰められたフラントの眉を見る限り、やはり非常識な振る舞いのようだ。
「殿下。そろそろ陛下がお出ましになります」
 助け舟のつもりだろう。フラントはアルバート王子の注意を促した。彼はもう一度舌打ちすると、別れの 挨拶もなく背を翻した。ラウタの女には、挨拶ひとつさえ惜しいのだろう。
 去ったアルバート王子の行く手を眺めると、確かにフラントの言う通り、人々が国王のために道をあけて いる。
「姫」
 フラントの呼びかけに、春陽も心得ているというふうに頷く。
 金管楽器の音色も華やかに、キーナ三世はその王妃とともに登場した。複雑な刺繍の縫い取られた 白の礼服を、息子たちとは似ても似つかぬ恰幅のよい身体に纏い、国王は尊大な笑みを浮かべて玉座 に向かった。華奢な王妃がそれに続く。
 王太子はどうやら、気性だけでなく、容姿までも父王のものを譲り受けなかったらしい。彼が銀以外の 色彩を持たぬのに対し、国王の瞳は真っ青であり、髪はごく薄い金色であった。太ってさえいなければ、 端正な顔と言えたかもしれない。
 彼は玉座の前に立つと、家臣たちの方を顧みた。そして
「今宵もまた、愛すべきガクラータの忠臣たちが一同に会したことを、余は嬉しく思う」
 彼はまずそう言うと、ゆっくり貴族たちの顔を見回した。そしてふっと表情を和らげると、続きを語りはじめ る。
(これは……)
 その演説を聞きながら、春陽は国王の堂に入った立ち振る舞いに驚きを禁じ得なかった。自信ありげな 態度はいつものことだが、こうして聞いていると、なかなかどうして人を魅きつけるものがある。彼のことは血 の気の多い凡君だという認識しか持っていなかったし、現在のガクラータの繁栄は有能な家臣と時代の 幸運だと思っていた。しかしこの王のカリスマも大きく原因しているのかもしれない。勿論、だからといってこ の王が賢君かといえば、またそれは別の問題だったが。
 挨拶が終わると、国王は玉座に就き、再び広間にざわめきが戻った。それを待っていたように、王太子 と彼を取り巻く貴公子たちが、真っすぐ春陽を方へ向かう。と同時に一時は収まりかけていた春陽への好 奇の視線が、一気に膨らんだ。
「ご機嫌麗しゅうございます、王太子殿下」
 まず口火を切ったのは春陽。彼女は優雅というより慇懃に腰を屈めた。
「お前、もう身体は良いのか」
「お陰様で」
 流暢なアーマ語を話すじゃないか、という囁き声が上がる。
 ──あら、田舎くさく訛っててよ?
 ――そういえば、そうだな。
 王太子は周囲の反応を素知らぬふりで、しらじらしく続けた。
「お前は姿を現さないのではとも思ったが、どうやら杞憂であったようだ」
 よく言う。
 春陽は内心呆れた。わたくしが欠席などしないことなど、彼は誰よりもよく分かっているはずだ。
「呼ばれた以上は何があっても参りますわ。ただ、もっと早く招待状をいただきとうございましたけれど」
「すまんな。わたしの妃がつまらぬ邪魔をしたのだ」
 あっさりと言った王太子に、ざわめきが広がる。周囲に会話は筒抜けになっているというのに、なんていう ことを言うのだ。
 その妃とやらが夫の寵姫たちに嫌がらせをするのは周知の事実ではあったが、それでも王太子の言葉 はあからさますぎた。
 と、まさに絶妙なタイミングで、新たな人物が集団を率いて加わった。
「本人のいないところで、わたくしの悪口でも?」
 艶めいた微笑みを投げてきたのは、茜で染めたような真紅のドレスを纏う、正真正銘の美女であった。 誰に説明されるまでもなく、彼女が誰かはあきらかだった。王太子第二夫人・マーサ=リュータ。年の頃 は二十四であったか。
 マーサの背は高く、首はほっそりとしている。透き通るような肌を持ち、顔の輪郭は卵型。腰の位置は 高く、括れている。つまり彼女は、ガクラータでいう美女の条件を全て満たしているということになる。瞳と 髪は、アーマ大陸では珍しい黒。性格に関しては酷評ばかりである彼女だが、その美しさと華やかさは万 人の認めるところであった。
「はじめまして。貴女が陽香公主? いえ、姫と呼ぶべきかしら。流石に高貴だこと」
 もはや公主と呼べない春陽を揶揄したマーサに、取り巻きたちが忍び笑った。しかし春陽は、どこの国も 同じか、と冷静に考える。父親の後宮は稀に見る穏やかさであったというが、それでも陽香の後宮には術 数権謀が渦巻いていた。あの壮絶な戦いに比べれば、こんなもの。
「はじめまして」
 敢えて春陽は皮肉を返さず、にっこりと笑った。こういう場合は冷静になった方が勝ちだ。向こうが上手く あしらわれたように感じれば上々。
  周囲の人々は、春陽の笑みに対するマーサの反応を恐れて、ぴりぴりとした。もしやと思って春陽がレ センドを見ると案の定、彼は興味深そうな表情を隠しもしない。それゆえ春陽は頭を悩ませる。
 彼は何を望んでいるのか。この対面は彼の暇つぶしになり得るのか。
 マーサの視線を意識しながら、春陽はレセンドに問うた。
「ところで王太子妃殿下のレイナさまは? まだお見えになっていらっしゃらないようですが」
「!」
 さっとマーサの頬に朱の色が走った。一度挨拶を交わしただけで、すぐ自分からレイナに興味を移した春 陽の態度は、つまり彼女が正妻以外は眼中にないと言っているも当然だと感じたのだ。
 春陽はくだらない諍いだと知りつつも、どうせいつかは衝突するのだから、と王太子の思惑に乗る。レイナ と話してみたいというのも嘘ではないのだが。
 しかし春陽は、レセンドに意外な台詞を事もなげに返される。
「レイナ? ああ、あれは来ぬだろう」
 ──何故?
 内心の疑問に答えたのは、彼でなくマーサであった。
「あの方も"異国の王女゛であそばされるので、“居場所”のなさを感じられるのかもしれませんね。無理 やり連れ出して、恥でもかかせてしまったらお可哀想ですわ」
 レイナだけではなく、春陽も嘲笑する言葉である。
 嫌な女性だと春陽は思った。しかし、それこそが彼女の魅力であり、レセンドが彼女を側に置く理由で あろう。マーサは自分の醜い感情を自覚し、けれど自分の意を曲げることはけっしてない。圧倒的なまで の自信を持つ持つがゆえの奔放さだった。毒のある自らの魅力を熟知し、人々に堂々と見せつけている。
 この分だと、恐らくレイナ王太子妃はマーサによって、かなりの精神的圧迫を受けていることだろう。人質 同然に娶られたとはいえ、レイナはランギスの王女であり、紛うことなくガクラータの王太子妃である。名家 の出であるといっても側室であるマーサが、人前で堂々と彼女を虚仮にすることが罷り通るなど、普通な ら考えられることではない。まして、このような公的な場に王太子の正妃が出席しないなど。
「公主……いえ、姫っ!」
 それまで沈黙を保っていたダン伯爵が、小声で、しかし珍しくも慌てて春陽の注意を喚起した。春陽た ちもすぐその理由を察する。なんと、ガクラータ国王キーナ三世その人が、こちらに向かって来るのだ。
 ずっと春陽たちの様子に耳をそばだてていた貴族たちも、これまでは聞いていないふりをするくらいの思 慮を見せていたのだが、こうなれば、もはやただの野次馬となって、彼らの回りに集まりだした。大きな輪の 中に取り込まれた春陽は、胸中で喚いた。
(国王は気づかぬふりをする──ですって!?)
 それが本当なら、どうして彼はこちらへ来るというのだ!
「父上……?」
 王太子を見ると、彼もやはり不審そうに父親を見ている。春陽は顔には出さないものの、どう対処すれ ばいいのか迷っていた。国王に対する礼儀作法すら、春陽は知らないのだ。中途半端なものは醜悪なだ けに、どうしてよいのか分からない。
「王子。陽香公主はどうだ」
(王子……?)
 楽しそうに王太子に問うた国王の言葉に、春陽はひっかかりを覚えた。
 しかし春陽の疑問を他所に、会話は進んでゆく。
「陛下。宮事の決まりを違えましたか」
 冷静に問うた息子に、父王はひょいと片眉をあげただけだった。
「慣例とはいえ、意味のあるものではなかろう。白々しいにも程がある」
 言ったあと、大柄な身体を揺すって彼は哄笑した。春陽も同感であったが、 国王は想像以上に大まか な性格をしているらしい。
 春陽にとっては、ひたすら迷惑なばかりであった。
 その時、マーサが素早くドレスの裾をつまんで、腰を屈めた。
「国王陛下におかれましては、この度の凱旋お喜び申し上げます」
「うむ」
 マーサの恭しい口調に応えた国王に、はっと春陽は我に返った。
(──出遅れたっ!)
 何という失態か。国王にはマーサのように敬意を示さなくてはならないのに。しかし、彼女の台詞の後に それをすれば、陽香公主が自国の敗戦を祝福しているかのようで、かえって滑稽だ。マーサはそれを見 越して、春陽の行動を封じるために、あのような台詞を口にしたのかもしれない。
 マーサの思う壷とは思いつつも、春陽は身動きが取れなくなった。
 マーサが嫌みったらしく、くすっと笑っているのが分かった。
(────っ!)
 ……いや、冷静になれ。
 わたくしは“誇り高い公主”なのだから、国王に頭を下げなくとも不自然ではない。わたくしは“挨拶が出 来なかった”のではなく、“敢えてそうしなかっただけ”なのだ。
 つんと澄ましてみせた春陽に、聞こえよがしの悪態が耳に入った。
 ──まあ、ごらんになって? 陛下を前にしてあの態度。
 春陽は、意図した通りに誤解してくれたことを知り、安堵した。この国に来てからは、感情の出にくい自 分の性質に何度救われたことか。とにかく動揺を王太子に見られなくて済んだようだ。
「敵国には媚びを売らんか」
 感心したような、あるいは面白がるような声をあげて、キーナ三世はまじまじ春陽を見た。
「なるほど、完璧に王子の趣味だ」
「そうですか」
「そうだ。お前は簡単に手に入る女など目もくれないからな。そこの側室よりも気に入っているのではない か」
 断じた国王に、マーサは苦々しそうに唇を噛んだ。
「どこが良いのか理解に苦しむな」
「それはそうでしょう。陛下とわたしの女の趣味は全く違うのですから」
 キーナ三世は、自分の好み以外の女性を娶ることは絶対しなかった。どれほど政治的な意味があろう と、それを貫いたというのだから、よほどの好色だと、春陽などは思うのだ。
 しばらく国王は彼らと話していたのだが、王太子たちがありきたりの反応しかしないので、すっかり飽いた ようだった。
「つまらん。余はもうゆく」
 最後は本当につまらなそうな顔をして、国王は早々に背を向け、その場を去った。 それを期に、マーサ も華やかな貴婦人たちの輪に戻っていった。
「殿下。しばらく姫のエスコートを任せても?」
 ダン伯爵フラント=カサンナが問うと、王太子は頷いた。それを確認して、フラントはぼんやりと王太子の 近くに控えていた息子のテイトを促し、その場を離れていく。おそらく気を利かせたつもりなのだろう。
 やっと嵐が去る。春陽は安堵したが、それを悟られぬように努めた。
 王太子はそのままわざとらしいほど丁寧に春陽の手を引き、会場の隅へと誘った。春陽は少し戸惑った が、そのまま身を任せた。ごく紳士的な挙動は、船上では見せたことのないものであったが、れが普段臣 下たちに見せている姿なのだろう。
 すっと周囲から人の気配が引いていくのが分った。王太子からの無言の意を受けて、人々が声が聞こ えない程度の距離をつくって場所を空けたからだ。
「久しいな」
 そういえば王太子とふたりで話すのは久しぶりのことであった。彼は春陽をダン伯爵家の別邸へ放り込ん だ後、今日この日まで音沙汰がなかったのだ。
 王太子は春陽のドレス姿を上から下まで眺め、そっけなく言った。
「――良く似合っている」
「結構な頂き物をありがとうございます」
 ドレスの趣味の良さは正直春陽には分りかねたが、これを贈ってくれたのは王太子からである。礼を言 うべきだろう。
「先ほどアルバートが来ていただろう」
 くつりと咽喉を鳴らして、王太子が尋ねてきた。
「ええ、ご挨拶させていただきました」
「見た目どおり、暗愚な奴だろう」
 弟が弟ならば、兄は兄。なんと人前であけすけな言動をする兄弟だろうか。間違いなくふたりともあの 王の子である。
 春陽の心中をどう思ったのか、レセンドは楽しそうに言った。
「才覚も地位も人脈もなしに、野心ばかりが独り歩きしている奴だ。まあ裏工作の能力だけは賞賛に値 するけどな」
 どうやら兄弟仲は最悪らしい。それが春陽には不思議だった。
 無論、理屈では分る。だが春陽自身にとって異母兄姉たちは、親しい存在であるか、あるいは没交渉 だるがゆえに全く何の感心を持たないかのどちらかであり、争いの対象ではなかったのだ。



 その後は何事もなく夜会は進んだ。全員と会話することは叶わなかったが、主要な王族の顔と名前を 一致することも出来た。会えなかったのは王太子妃レイナと、まだ幼い第三王子・ランシェルのみである。 それなりに有意義であったといえよう。
 ともあれ、色々な思惑に晒されながらも、なんとか無事に一日をやり過ごすことが出来た春陽は、ダン 伯爵の別邸へ帰宅した途端、ぐったりと寝台に伏せることになった。
 眠りにおちる瞬間、彼女はアルバート王子のことを思い返していた。
(アルバートは何か不穏な目をしていた)
 王太子と分かれた後、春陽はあの嵐のようなアルバート王子を探したが、彼は来賓たちとひととおり会 話を交わすとすぐに帰ってしまったらしい。このような社交の場はアルバートにとっても重要な筈であったが、 何か用事があったようであった。
 彼の目が気になったためもう一度話したかったのだが、仕方ない。
 これから起こるだろう何かを予感して、春陽は憂鬱に瞳を閉じた。
 静かな日々はのぞめそうにない。








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