春陽の章 [4]





 第一公主緋楽は政務室へ続く廊下を足早に進んでいた。衣擦れの音が、そのまま彼女の不安を表すように、上品でない響きを出した。
 櫂領の城下町・莱玉。その中心部にある櫂城に起居してからというもの、兄である吉孔明皇子はもちろん、緋楽もまた忙しい毎日を送っていた。櫂王の妻があまり聡明でない夫人のため、彼女の代わりに緋楽がひっきりなしに訪れる者たちの相手をしていたからである。
 緋楽は目的地に着くと、躊躇しながらも門扉の外から声を掛けた。
「緋楽です。お召しにより参りました」
 許しを得て、彼女は足を踏み入れた。政務室には櫂王・泰義伯だけではなく、兄の姿もあった。
 緋楽がこの部屋へ入るのは初めてのことである。本当は度々この部屋へ足を運びたかったのだが、彼女は自らにそれを禁じた。彼女は豪胆な性格であったが、公主としての立ち振る舞いをきつく躾けられていたためである。今や兄は、ただの皇子であった昔とは全く違う立場となった。己が余計な口出しをすることによって、統率者となった兄の権威を侵すことを避けた。
「それでお話しとは?」
 その場に膝をつく緋楽の肩に緊張が走っている。吉孔明皇子と櫂王・泰義伯は顔を見合わせた。やがて口を開いたのは、義伯の方であった。
 義伯は、緋楽たち兄妹にとって、叔父にあたる。つまりは武妃である泰桃珠の兄である。もうすぐ齢六十を数える彼は、穏やかな気性の王だった。書道と詩を愛する知識人で、官というより、芸術家といった趣である。緋楽は、父帝が少年時代、この義伯を実の兄のように慕っていたことを、母親から聞いていた。
「赫夜公主が、斉領と緯択領の境目辺りで発見されてしまったようです。捕まってはおられませんが、櫂王たる私と緯択王には追捕の要請が」
 捕まっていない、との一言に一瞬だけ安堵した緋楽であったが、すぐに表情を引き締めた。
「それで……?」
「緯択王もわたしも、言われるままに一応兵を出しました。ですが、わたしはもちろん、赫夜公主を捕まえるつもりなどさらさらないし、それは緯択王も同じだろうと思います」
 適当に公主を探している振りをするだけだ。吉孔明も櫂王の言葉に頷いた。
「朝楚も、いくら命令したところで、諸王が自国の公主をけして捕らえはしないことなど、分かっているだろう。あれは、我々の動きを邪魔するな、そして公主を匿うな、というぐらいのつもりで言っているだけで、協力などはなから期待しているとは思えない。朝楚は独力で、赫夜公主を捕らえるつもりだ」
「そう……ですか」
 上手く赫夜たちが逃れてくれるといい。まだ緋楽たちは、彼女に差し伸べるべき腕を持っていないのだから。まだ行動を起こすには、力が足りない。
「――諸王は集うでしょうか?」
「そうですな」
 硬い声音の姪に、義伯は苦笑して机子から立ち上がった。ゆっくりと歩み寄りながら、答えを返す。
「今のところは、我が櫂領と、桓領、緯択領ぐらいしか、戦う力がありません」
「足りない、ですね。ガクラータ王国の本軍が帰還した今、紀丹宮を取り戻すだけならば十分ですけど、その後の反撃を考えると……」
 緋楽のため息のような言葉に、吉孔明は説明を加える。
「明領は動かぬ。明領は陽香において、一番先に攻撃され、一番の被害を受けた場所だ。明王は戦死し、城は略奪されて火を放たれた。反撃どころではない。斉領は、ガクラータに城を占拠され、王は捕らわれている。」
「邦はどうですの」
「邦領は朝楚国と隣り合わせで、下手に動けばまずい。そして則領はもともと貧しく、その上、この戦で他領からの物資が途絶えてしまい、とてもではないが、出兵の費用を捻出できない」
 改めて聞くと、この櫂領がどれだけ恵まれているかが分かる。少なくとも、ガクラータや朝楚の軍隊がこの地を踏むことはなかったのだ。
「明や則の残存能力では、無理して動かせたとしても、たいした成果は期待できないからいいとして、斉や邦はなんとかならないのですか」
「なんとかしてみせるさ。しかしまだ、呼びかける段階ではない」
「では、兄上の存命の公表は、まだ先のことなのですね」
 倒れた王朝を立て直すには、絶対的な指標が必要だ。だが賢帝の誉れ高い炯帝はもはや亡く、皇太子も国の身代わりとして散った。陽香に散らばる臣下たちは、自分たちの君主を失い、動揺している。
「けれど、公表を延ばし延ばしにすれば、民の中で小さな乱が頻発するのではないかしら」
 もしそうなれば、陽香は力を少しずつ殺がれてゆくことになる。反乱を起こすなら、全ての力を集めた大規模なものでなければ、意味がないどころか、国は救いようがなく乱れるだろう。
「だが、まだその時期ではない」
 繰り返し、吉孔明は言った。彼の言葉に、緋楽は呟いた。
「時期、ですか」
 咽喉まで競りあがった憂いの言葉を飲み込み、緋楽は目を伏せた。長い睫によって頬に落とされた影を吉孔明は苦い気持ちで見守る。
 この戦いが始まるまでは、緋楽がこのような様子を見せることは、滅多になかった。彼の妹は、常に明るく、華やかな公主なのだ。しかしここ最近では、彼女が溜め息をつかない日はない。
 吉孔明は、今、妹が何を考えているかを知っている。
 『時期』――自分もその単語に痛みを覚えたのだから。
 それは、春陽が死ぬときをも指すのだ。
 そのときが来ると吉孔明たちは出兵する。そして春陽は祖国のために、敵国の王族を殺め、処刑されるだろう。陽香はガクラータの混乱を利用するのだ。春陽を犠牲として。それを提案したのは、ほかならぬ春陽自身だ。
「緋楽」
 吉孔明は問う。
「迷っているのか?」
 この声音に、己こそが惑っていることを実感しながら。



*     *     *



 空がしらじら明るみ始めた頃。平生より早くに目覚め、国王キーナ三世は寝台から降りた。
 アンザゲット王宮の朝は早い。特に厨房においては、国王とその妃たちの朝餉の支度のための、目まぐるしい光景が展開されていた。しかしその食卓につくべき人間は今だ、寝所に入っているはずの時刻である。
 侍従が朝を告げにくるまで、まだしばらくある。彼は静かに窓の一つに歩み寄って、青白い外を眺めた。彼の脳裏に浮かぶのは、昨夜の事件のことだった。
 第二妃に生ませた彼の長男レセンドが、何者かに襲撃されたのだ。だが、夜中にやってきた急使の報告を、国王は動揺することなく平然として聞いた。そして、事の全貌が明らかになるまでは箝口令を敷き、捜査するように命じただけである。その後はさっさと、再び眠りについた。
 襲撃者たちは、一人は死に、一人は取り逃がしたものの、残る一人を、生きたまま捕らえることが出来たという。しかしどうせ、犯人を明らかとし、法の下に罰することが出来る日など来ない。
 キーナ三世には、目星をつけている人間が何人かいる。その誰もが権力と財力に溢れた存在である。時には国王たる己を凌いで。もし黒幕が誰かと分かっても、彼らはなんとしてでも揉み消してしまうだろう。動かし難い証拠を残すようなへまをするとも思えない。
「何と煩わしいことか」
 それは苦笑だったが、苦笑というには鋭すぎる眼差しで虚空を睨む。戦いを好むキーナの気性は、そのまま謀略──特に宮中の争いを忌む。
 馬を、あるいは船を走らせ、戦い、そしてもちろん勝利し、自らの手でガクラータ王国を発展させる。それは自分の生涯を懸けての仕事だ。家臣や王子たちの、くだらない小競り合いとは相容れぬ。……まして余には時間がないのだ。
 彼にとって、今回陽香を攻めることは賭けだった。無茶である自覚はあったのだ。今を逃せば、後はないものと覚悟した。結果、強引な手を使ったものの、念願の陽香を制した。
 何故、こんな大切な時期に内乱を起こそうとする?
 ついたのは溜め息ではなく、怒りを落ち着かせるための吐息だった。



 全てを隠密のうちに処理をしようとした国王の試みは、結果として全く効をなさなかった。
 無論、いくら緘口令を敷いたとしても、事件自体を完璧に隠し通せるものではないことは承知していた。噂は漏れるものである。出所をつきとめることなど出来ない。
 しかしあまりに噂が広がる速度が速すぎた。事件の二日後には、すでに下働きの者たちまで王太子襲撃事件のことを知っていた。それだけならまだしも、噂では犯人は王妃・カゼリナということになっているのだ。流石に国王も驚いた。
 人々にしてみれば、王妃犯人説は十二分に説得力があった。レセンドさえいなければ、彼女の息子であるランシェルが王太子となれるのだ。だいたい、いつまでもレセンドが王太子位についていること事態がおかしいのだから。人々が王妃を疑うのは当然で、だからこそ国王は、噂が故意に流されたものか、自然発生したものかの判断がつけられなかった。もっとも、もし噂が自然発生したのだとしても、これほど早く人々に浸透したのは、誰かの手が入ったからに違いなかったが。
 王妃・カゼリナは貞淑な女性である。今まで、自分のライバルである側室やその子供たちを貶めるような言動をとったことはない。夫のキーナ三世の意に添わぬことをけしてしない。しかしその反面、彼女は誇り高く、内心で、何故王妃たる自分の息子が王太子ではないのだと、それほど強くではなかったが不満に思っていたのも事実だ。
「………兄上を狙う者は腐るほどいますからね。兄上はわたしと同じく、側室の王子ですから」
 不意にそんな台詞を耳にして、国王はアンザゲット王宮の回廊で足を止めた。第三妃・セリースが生んだ息子の、アルバートの声だ。物陰に隠れて様子と窺うと、アルバートの他にセリースとカゼリナ王妃がいた。アルバートたちが会話していたのは、食堂から出たところの広い廊下だった。
 アルバートは笑いを含んだ声で、なおも言った。
「兄上が王位にお就きになられるのを厭う者、といえば………」
「アルバート!」
 叱責の声をあげたのはセリースだった。彼女が声を上げていなければ、キーナが上げていた。
 アルバートの、人目がある場所での本人への露骨な台詞は、わざとだろう。人々と王妃の、両方の反応を楽しんでいる。何しろ先程の台詞は、お前がレセンド王子を襲わせたのだろうと言っているも同然であった。
「………っ!」
 流石に怒りの目をアルバートに向けたカゼリナは、しかし同時に立ち聞きをしている国王にも気づいた。彼女はすぐに興奮の色を消し、激した自分を恥じて口をつぐんだ。
 王妃の様子に、すぐに残りの二名も国王の存在を知る。三人の見つめられ、仕方なくキーナ三世は彼らの側まで歩いていった。
「ここで何をしている」
「カゼリナさまと夏の神穣祭について、お話ししていたのです」
 すぐに応じたのはセリースだった。聞かれていたのを承知で、見え見えの嘘を言うのは、この場を温厚に収めるためにアルバートの発言をなかったものにしようという魂胆からだった。セリースの意を受け、カゼリナも口裏を合わせる。お互い、争いたいわけではないのだ。
 ただアルバートだけは攻撃的な態度を崩さなかった。セリースは、自分とは正反対な気性を持つ息子に、眉を顰めた。彼女はキーナ三世の妃の中でも、最も夫に依存し、変化を嫌う保守的な女であった。父王に逆らってまで野心を持つアルバートを、嫌悪している節さえある。そんなセリースと謀略を嫌うキーナとの間に生まれた子供が、どうして陰湿な野心家になったのかは誰にも分からぬことであった。
「そうか、妃同士が懇意にするのは、喜ばしいことだ」
 白々しい妃たちの言葉に、自身も白々しい言葉を返しながら、キーナは複雑にアルバートを見やった。
 最近のアルバートは色々な意味で目に余る。昔から斜に構えたところはあったが、これほどではなかった。国王たる自分に対しての無礼な言動は、さすがにないものの。だが今アルバートを咎めれば、本格的な騒動の発端になりかねない。
 キーナは理性を総動員して、自分の中の猛るものを押さえ込み、歩調が荒々しくならないように気をつけながら、その場を去った。
 だがしかし、彼は内心で呟く。
 どれほど細心に取り繕おうとて、いずれ避け難い嵐は起きるだろう、と。



 春陽は、ふうっと溜め息をついた。
(………なんだが気が進まないこと)
 アルバート王子が、アンザゲット王宮でカゼリナ王妃を前にしていたのとほぼ同時刻、春陽は馬車に揺られていた。
 伯爵家の家紋が入った馬車はシュナウト宮殿を目指していた。
 春陽の隣にはエーシェと花鳥が座っている。平然としているエーシェに対して、花鳥はどこか所在なげである。前回――あの夜会ときだ――花鳥はただ黄色人種というだけで、シュナウト宮殿に入ることを禁じられ、春陽の供につくことができなかったからだ。
 春陽は、彼女をガクラータに連れて来たことを申し訳無く思った。自国においての花鳥は、愛らしく快活であった。まだガクラータ王国との戦いも、吉孔明との恋も始まっていない春陽が童女の頃、花鳥もまた憂いの少ない無邪気な少女だった。あの頃の花鳥の、周囲を惹きつける魅力も、家族との別れもないまま言葉の分からない異国へ連れて来られ、似合わないお仕着せを着せられた今、すっかり半減してしまった。
 あらゆる重圧が、彼女に暗い影を落とさせた。
 今日に限って、そんな花鳥を正視できず、春陽は窓の外に目をやった。
 青い空の下、王都はにぎわっている。この国にたれこむ暗雲に気づきもせず。――いや気づいても平民には関係ないということなのだろうか。戦によってこの国は繁栄している。
 しかしその繁栄が、けして永遠ではありえないことを知らないのか。
 八つ当たり気味にそんなことを考えて、春陽は自己嫌悪した。
(ああ、無意味に暗いことばかり考えてしまっている)
 何故かいつものように建設的な考え方ができない。
「雨が降るかもしれませんね」
 同じく外を眺めていた花鳥が、ぼんやりと無駄口を叩いた。言葉どおり、空は明るく晴れているものの、むっとする熱れ(いきれ)がある。
「そうかもしれないわね」
 生返事をした春陽は、己の手のひらを見つめた。
 かすかに指先が震えている。もう夏を迎えようとしているのに。
 何を勘違いしたか、エーシェが「王太子殿下は大丈夫ですよ」と力づけつように微笑んだ。彼女たちは負傷した王太子の見舞いのために、シュナウト宮殿を訪問するのだ。
 だが花鳥は不審そうに春陽を見る。
 震えは止まらない。
 ああ、どうしたのだろう、わたくしは………。
 春陽はゆるゆると、己のなかの不安に気づく───。


 レセンド王太子は想像よりもずっと元気なふうだった。広い寝台に深くみを沈めていたが、発声は明瞭だし、表情も平生となんら変わりない。ただし、やはり動き回れるはずもなく、しばらくは養生しなくてはならないということだった。
「よく来たな」
 レセンドはごく自然にそう言ったが、春陽は密かに驚いていた。彼がそんなふうに普通の言葉を春陽に与えたことなど、今まで一度もなかったのだから。
 春陽は胸中で呟く。
(わたくしはこの人を………)
「どうした、変な顔をして」
「貴方さまがあまりに平然としてらっしゃるので」
 レセンドは、なんだそんなことか、という顔をした。
「命を狙われることなど、今回が初めてじゃないからな。実際に傷を負ったのは不本意だが」
 その台詞に、聡い春陽が相手でなかったら気づかれなかっただろう、僅かな違和感が生じ、春陽はレセンドの怪我が見せかけより酷いことを知った。
 考えてみれば、背中を斬られ、そのうえ強打したのだ。骨の二、三本は折れていない方がおかしいというもの。
(それは、わたくしのせい)
(────わたくしはこの人を)
彼女の内心を知ってか知らずか、レセンドは傲然と言う。
「わたしは今更これぐらいのことでは動じぬ。相手が肉親であっても」
「肉親であっても?」
「当たり前だ。わたしには愚かな身内が多い」
 憎しみも怒りも伴わない、あくまで事実のみを語る物言い。
 彼はそんな自分を自覚しているのだろうか──しているのだろう。
(冷たい男)
 しかし、春陽はそんなレセンドの中に、自らと同種のものを見いだしていた。自国にいるころ、何度も命を狙われた。襲撃者を自らの手で屠ってゆく度、心は冷えていった。殺すことをなんとも思わぬ自分がいる。
 自分には惜しむべきものがある。愛する肉親がある。しかしそれは環境に恵まれたからだ。本質という点で、この王太子と自分は似ているのかもしれない。
 そう思った春陽は、なんともいい難い嫌悪感に襲われた。
 彼は誰も愛さないからこそ、傲慢になれるのだろう。それは同時に、自分もまた彼のように傲慢になる因子が備わっているということだ。
「巷では、王妃陛下に嫌疑がかけられているのを、ご存じでしょうか」
「ああ。だが……少なくともこの件に関して、王妃はかかわっていない」
 春陽の問いかけに対して、レセンドは断言した。
 静かな銀の瞳。
 この瞳が感情で揺れるのを見たのは、たった一度しかない。
 先日の、殺意に染まった瞳だけ。
「何故そう思われます」
「ランシェルは正当な権利を有している。なにも、後ろ暗い手立てを用いなくとも、その札だけで存分にわたしと戦える。わたしを抹殺すれば、国民の疑惑を得てしまい、良いことにはならないだろう。その証拠に、国民たちは今回わたしを襲ったのが王妃だという噂を、何の疑問もなく受け入れているだろう? わたしが死ねば真っ先に自分が疑われるのに、そんな愚かなことはすまい」
 成程、と春陽は相槌を打った。
「それに王妃は、おとなしい性格ではあるが、誇りも高い。彼女は正面からわたしと戦う方を選ぶだろう」
 国王の妃たちのなかで、一番マシだとレセンドが思っているのは、このカゼリナ王妃であった。あくまで『マシ』といったレベルでしかなかったが。
「わたしを狙う者は別にいる」
 レセンドは、試すような顔で愉しそうに春陽を見ていた。少ない手掛かりではあったが、確かにレセンドはヒントを織り交ぜて話していた。
「貴方さまの口調から察するに、犯人は………」
 流石にためらったが、口にする。
「………アルバート王子なのですね」
 囁き声となった春陽に、レセンドは無言で頷いた。
 やはり、そうだったか。
 春陽は王族たちの関係を、正確に把握しているわけではなかった。しかし前々からレセンドは、アルバートのことを野心家だと評していたし、先ほどの会話で、春陽はほぼ確信していたのだ。
「あいつは昔から、わたしに対して対抗意識を持っていたからな。それにしても、ここ最近は特に………───つぅっ」
 背中の傷に触ったのか、レセンドは顔を顰めた。
 ぎくっと春陽は身体を強ばらせる。
 (見たくない)
 唐突に春陽は立ち上がった。
「?───帰るのか」
 いきなりのことに、不審に思ったレセンドが問う。
「ええ」
あっさり春陽は言った。言えた自分に感謝する。
(早く立ち去りたい)
 彼の前から早く。
 彼女の思いは性急で、切実だった。
 不自然なまでに、切羽詰まっていた。
(なぜならわたくしは………わたくしはこの人を)
 耐えられない。
 あの晩からもやもやしていたものの正体が、やっと分かった。
 寝台へ身体を預ける彼を見て、自覚した───してしまった。
 自分自身の酷薄への、恐怖を。


 ――――わたしはこの人を見殺しにした。


 春陽は本当に素早く、部屋を出た。それはまさに、逃げるかのような急ぎ方であったが、レセンドがそれに気づくことはなかったことがまだ、春陽にとって救いではあった。
 春陽は、後ろに付き従う花鳥とエーシェの心配げな眼差しに気づいたが、何も言わない。今はただ、この宮殿を出ることしか考えられない。
 情緒不安定になっているという自覚は彼女にない。
 常に冷静で、自己批判のできる彼女には、珍しいことだった。だからこそ花鳥は不安に感じるのだ。
 早く休ませて差し上げたい。
 ―――しかし春陽がシュナウト宮殿を辞すことは、叶わなかった。
 彼女が馬車に乗り込む寸前、レセンド王太子の女官が駆けつけ、言った。
「どうかこのままご滞在くださいますよう。お部屋は取り急ぎご用意しますので」
 それを聞いた春陽は、長く沈黙した。
 酷く暗い顔をした彼女は、ただ一言「お召しになられるのなら、何時、如何なる場合でも」とだけ口にする。
 空が曇り始め、怪しくなっていった。


 春陽公主をここに止めろ、という命令を与えて、女官を送り出した後、レセンドはゆっくり身を起こした。
 あちこちが痛む。
 情けないと彼は自嘲した。──こんな姿をあの公主に見られるなど。
 初めて会ったときの、彼女の人を見下す眼が気に入っている。しかし自分が見下されるのには我慢ならない。そんなことには慣れていないし、許すつもりはない。我の強い女を好むが、自分に対して無礼な女を好きなわけではないのだ。
 なのに、わざわざ自分が弱っているときに、彼女をこの宮殿に滞在させるなど、我ながらどうかしている。
「また地下に行かれますか」
 侍従が腕を貸しながら、そう聞いた。
「───ああ」
 三人のうち、一人だけ生き残った襲撃者は、現在アンザゲット王宮へ幽閉されている。
 そしてもう一人。もう一人の襲撃者───行方不明のはずの男が、このシュナウト宮殿の地下牢にいる。








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