春陽の章 [6]





「それで………」
 声が不自然になっていないか。動揺があからさまになっていないか。緋楽は胸元を握り締めたい衝動を抑え付けながら、続きを促した。
 背に、じわりと不快な汗が流れてゆく。
 とうとう、吉孔明は緋楽の恐れていた言葉を口にする。
「緋楽。我等は出兵する」

 ――――嗚呼、春陽!!

 瞬間、己の胸から血が噴き出たかのような心地がする。
 緋楽は、きりきりと痛みの増すばかりの心臓を握り締めるように、ついに耐え切れず胸元を押さえた。
 覚悟はしていた。しかし、実際にそのときを迎えると、これほどまでに絶望を覚えるものだとは!
(………春陽、春陽っ!!)

 わたくしたち、とうとう貴女を殺すわ
 
 涙が溢れそうになった。それを堪える。しかし身体の中の芯が抜かれてしまったかのように、足元がおぼつかない。このまま、泣き崩れて、兄に縋り付いて喚き散らしたい。
 ああ、だがそれは許されないだろう。
 どんな奇麗事を言っても、わたくしたちは春陽の愛国心を利用し、犠牲とすることを決めてしまったのだ。当の春陽が覚悟を決めて涙しないにも関わらず、利用する側のわたくしたちが嘆くのは、あまりに身勝手すぎる。卑怯すぎるではないか。
 そう思って、緋楽は兄の顔を見る。春陽の異母兄にして、恋人である吉孔明がどのような顔をしているのかと、案ずる気持ちで。
 そして、緋楽は吉孔明の表情を見て、愕然としたのだ。
 ――――吉孔明は、怪訝そうな顔を妹に向けていた。
 「出兵」の言葉ひとつで、妹が何故こうも乱れるのか、不思議な顔をしていたのだ………!
(もしや、兄上は……)
 緋楽は、唇を噛んだ。



*     *     *



 春陽が王太子宮であるシュナウト宮殿で暮らすようになってから一週間以上が過ぎ、ガクラータは本格的な夏に突入しようかという暑さに見舞われていた。
 レセンド王太子は、よく冷やしている麦酒を運ばせて、寝台の上で部下の報告書に目を通す。議会の決定事項や、軍事予算の見直しを請求する申し立て書などに交じって、レセンドが特別に指示して作らせた、貴族たちの動向などが書かれた紙束もある。王宮に参内しない間に情勢が変化しても対応できるように、レセンドは常に詳しい報告を部下に求めた。貴族どもの餌食にならぬためには、それなりの自衛と先制攻撃が必要なのだ。
 報告を持って来た男の目の前には、普段となんら変わりの無い、見慣れたレセンドの姿があった。その姿に彼は無性にほっとする。
 男の名前はクリストファー=ザラ。ミキター侯の次男で、王太子の腹心だ。年は三十を少し越えたばかり。ここ最近の王太子の変調に一番早くに気づき、また彼はその理由をうすうす感じとっていた。彼は王太子が変わってしまうことを恐れているのだ。
 しばらくレセンド王太子が紙をめくる音だけが響く。文字に視線を落とすレセンドの秀麗な眉目は、歪むことなど滅多にない。
「───クリス」
 目を通し終えたレセンドは、視線は書類に向けたまま問うた。
「あれはどうしている」
 報告の最後に必ず交わされるやり取り。
 初めてそれを聞かれたとき、クリストファーは答えを用意していなかったので、何ひとつ答えられなかった。しかし報告をレセンドの寝室に届ける度にそれを聞かれるので、今ではすぐに答えられる。
「朝早くにお目覚めになられ、ご朝食の前に薔薇園を散策、現在は書庫から本を借りて自室でお読みになっておられます───いつも通り、規則正しい生活を送っていらっしゃいます」
 クリストファーは言いながら、王太子の表情を注意深く観察した。しかし主人に、特別な反応を見いだすことはなかった。
「他に変わったことは」
「特に」
(それ程に気になされるのなら、直接会いに行けばよろしいでしょう)
 レセンド王太子は以前は、春陽公主と頻繁に会っていた。それが、同じ敷地内で暮らし始めた途端、人々の予想を裏切って全く彼と顔を合わせていないのである。
 彼女に飽いた───というのなら理解できる。むしろレセンドにはありがちなことだ。しかしそうではない。強く意識しているがゆえに、近づくことに慎重になっているといったふうである。
 何があったのだろう。王太子と公主の間に。
 クリストファーは問いはしなかったが、実際に質問されてもレセンドには答えようがなかっただろう。
 今、レセンドと春陽の心はざわめき始め、春陽に対して、以前通りの接し方が出来なくなりつつある。しかし王太子にとってのその切っ掛けは、春陽が見せた瞳の色、ただそれだけにしか過ぎない。表面的には何も起こってはいないのだ。
 少し言葉を交わしただけの、変哲のない数十秒間。何かがあったわけではない。なのに自分の中の何かが揺らいだ。
「もういい───下がれ」
「では」
 後ろ髪を引かれながらも軽く頭を下げるだけにとどめ、クリストファーは退出した。



 再び夜が訪れる。
 レセンドはしだいに心が安らかになってゆくのを感じる。
 彼は傷口を庇いながらも、ゆっくり寝台から抜け出した。
 少し風の吹く露台から、闇の果てに浮かぶ小さな皓い月を望む。
 夏だというのに虫の音すらしない深い静けさ。
 心地よい孤独。
 王太子位などに執着せず、側室の王子として王宮の奥でひっそりと生きればいいのだとは知っている。
 しかし自分は人の上に立つべき人間なのだという、相反する意識も彼にはあった。
 彼は、己の中の雑多なものを自覚している。
 権力欲、残虐さ、征服欲。あらゆるものを手にしたいという望みが彼にはある。しかし同時に、あらゆるものに彼は無関心でもあるのだ。
 何かを強烈に欲しながら、反面、もしそれを得られなくても彼は落胆しない。
 誰も憎んだことがない。
 誰も愛したことがなく、愛されることに飢えたこともない。
 だから彼は冷徹になり傲慢になり、時に寛大になることができるのだ。
 世界に在るのは自分だけで、疑問や矛盾はない。
 それが今回に限って勝手が違う。
 あの存在に対して、無関心でいられない。それどころか彼の中で、益々存在感が増してゆく。
 王太子自身が預かり知らぬ、無意識のうちに。
 いや。
 うすうす違和感を感じとってはいたのだ。
 一度身体を重ねて、まだあの存在に飽きていない自分に。
 そして春陽が自分の見舞いに来た日の夜、彼女と廊下ですれ違って言葉を交わしたときに、レセンドは自分の異常にはっきり気づいた。
 春陽が見せた静かな憎悪の瞳に、何故わたしは裏切られたなどと思ったのだろう?
 春陽が自分を憎んでいることなど初めから知っていたし、誇り高くあることを好ましく思っていた。狎れた猫のようになってしまえば、彼女は用済みだとさえ考えていたのだ。
(確かめねば)
 酷く不快だった。
 皇族とはいえ、ラウタの女の瞳にいちいち気を廻さねばならぬことが。出会ったときは面白いと思い、退屈しなくてすむと考えたが、今が逆に彼女と関わりたくない。
 しかし最早、無関係でいることはできない。たとえあの女を遠くへやってしまっても、ずっと自分は気にかかったままだろう。
 何より自身が答えを望んでいる。
 明日、確かめるため春陽に会いにゆこうと決心したレセンドは、寝室に戻ろうとして、ふと足を止めた。
 そういえば、彼女も一日のなかで一番夜が好きだと言っていた。
 その時の彼女の瞳は、平生の勁さとはまた違う―――不思議な色を浮かべていた。



 明朝、春陽は薔薇園をゆっくり歩いていた。
 宮殿内の庭園に足を運ぶことは、ここ最近の彼女の日課である。宮殿内の数ある庭園は、それぞれが見事に調和のとれたガクラータの粋をあつめたものだったが、特に彼女が好んだのが、今歩いている薔薇園だった。
 薔薇園では、ガクラータ王国の国花である薔薇をどの季節でも見ることが出来るよう、何十種類もの品種の薔薇が植えられている。薔薇といえばどうしても豪奢な印象が強いが、朝露に濡れたさまは儚くさえあった。
 この国は霧の多い国で、朝霧などはけしてめずらしくはないが、この日はいつもに増して霧が濃かった。
 ぼんやりとした世界の中で、春陽の意識もまた淡くなる。
 彼女は庭園にかかった霧を進むとき、いつも幻想的な気分に襲われるのだった。
 胸の裡に棲みつくものに想いを馳せて、春陽は過去に再会する。
 今日は久しぶりに、今は亡き父を想った。
 彼女にとって陽龍は父親というより、母を愛した人といった存在であった。もちろん自分を子供として愛してくれていたのは知っているが、それは純粋な愛情ではなかったことに彼女は気づいていた。
 陽龍は春陽を前にしたときいつも、他の子供たちには見せぬ複雑な表情を浮かべていた。彼が何故、自分に『春陽』という名前を与えたのか。そして何故、あれほどまでに厳しい英才教育を受けさせたのか。今となっては知る術がない。父親はいつも、謎めいていた。
 春陽は、父親がまるで未来を知る者のように見えた。春陽がこの国にきて、言葉や習慣に大きく困らないのも彼のおかげだ。父親はこのことを予見していたのか。
「父さま………」
 わたくしは果たせるでしょうか。貴方から委ねられた責を全うできるでしょうか。
 自分の心が弱さに浸されてゆくのが分かる。
 この国に渡ってきたばかりの頃なら、きっと自分は何でも出来た。あの日に自覚した己の中の殺意にも、恐れを感じることはなかったろう。むしろその殺意に、改めて自分を奮い立たすことができたはずだ。
 国を長く離れたせいだ。
 彼女は生まれてから今まで、己の支えとしていた全てのものから隔たれてしまったのだから。
「!」
 石畳を歩く音がして春陽は我に返った。誰かがこちらに向かって来ているのだ。
 何の脈絡もない勘で、やってきたのが誰なのか彼女は理解した。
 驚きはない。
 ややあって、霧のなかから王太子が姿を現した。美しい銀髪を今日はまとめていない。
 近くにいた小鳥が、鋭く鳴いて飛び立った。
「このような時間、このような場所に如何いたしました」
 そう問うた春陽の瞳は、先日のような負の感情を宿していない。レセンドは少し安堵した。―――尤も、あれは春陽自身も無自覚に行ったことだとは分かっているが。
「お前が毎日ここに通っていると聞いて」
 素直に返され、春陽は面食らう。最後に会ったときのあの非友好的態度はどこへ行ったのだ―――それが自分のせいだと知らない春陽はそんなことを思う。しかし春陽自身、何故か皮肉を言う気分にはならなかった。
 彼が何を言い出すのか、きちんと聞こうと思う。
 自分でも不思議だった。この胸の中には今でも、彼を殺したいという欲求が潜んでいるのに、今はそれを意識しない。どうかすると忘れそうにすらなる。
 そのときの二人の心境を、どう表したらよいのか。
 お互いに、自覚したそれぞれの激しいものを持ちながら、この時だけはただ穏やかだった。
「聞かないのか」
「何を」
 春陽が真摯に先を促した。  レセンドに一瞬の逡巡。だが吐息ひとつで彼は迷いを振り切る。
「何日もわたしが、お前に会いに行かなかったこと。そして今になって、わたしがお前を訪ねてきたことの理由を、だ」
 明らかに彼の流儀から外れる言葉だった。彼は今まで、自分の行動の理由を説明したり、理解を得ようなどということは一切しなかった。
 自分がしたいようにするだけだ。
「殿下がおっしゃりたいというのなら、そうなさいませ。そうでないのなら、わたくしが口を出すことではないでしょう」
 わだかまりもなく言われて、レセンドは戸惑う。彼女はわたしの訪れなかった空白の日々を、どのように受け止めていたのだろうか。
 彼はしばし考え―――全然関係のないことを聞いた。
「ここがそんなに気に入ったのか」
 確かにここの薔薇は、アンザゲット王宮のものに劣らぬ見事さだとは思うが。
「ここの花は生きていますから」
 不意に。
 春陽から微笑みが零れた。
 本当に少女らしい、作り物ではない本当の笑顔。
(初めて………見た)
 その衝撃は、感動ですらあった。
 次にやってきたのは動揺。
 何故、天から降って来るかのように前触れなく、穏やかな時間がここに在るのだ。
 レセンドの声がうわずる。
「生きている………とは」
「生命力がありますでしょう。光を受けて、伸びやかで………」
 思い出した。―――『手折られた花は受け取れません』
 あれは戯れの言ではなかったか。  ふと春陽の方を向くと、懐かしむような――切なさを瞳は秘めていた。
 そう、夜が好きと言った、あの時と同じように。
 ほんの数瞬の、彼女が無防備になる瞳だ。
 やっとレセンドは、度々目にしたその瞳の意味を悟る。
 思い出したのだ――春陽には想う者がいたことを。
 この日を、この時間を共有したからこそ。
「いつまで面影を追うつもりだ。もう陽香には戻れぬというのに」
 責めたのではない。
 けして傷つけるために言ったのではない。
 けれど春陽の表情は強ばった。
(それを察せられてしまう程に、わたくしは弱いのだわ)
「―――さあ、いつまででしょう………ね」
 彼を、吉孔明を忘れられる日など来るのか。  春陽は再び微笑んだが、それは優しいだけで最早、無邪気とは言えないものだった。
 そして沈黙が訪れた。
 瞳が合ったとき、唐突に背を向ける。
 いつも先に立ち去るのは王太子だ。いつも公主はその背を見つめる。
 今日もまた。
 濃密な薔薇の香り。
 朝霧は少しずつ晴れてゆき、朝日が差しはじめた。
 幻のような時間は途切れ、後は少女がただ一人。


 花を見ると吉孔明皇子を思い出す。
 春陽のために梅を手折って、逆に渋い顔をされて困り果てた時の彼。
 自ら育てた白牡丹を、照れくさそうに贈ってくれた彼。
 共に庭園を歩き、語らった時間。
(兄さま………)
 春陽の心に、レセンドの言葉が突き刺さっている。
 もう戻れない。もう会えない。
 自室に返った春陽は、寝台に俯せて動かなくなった。それからほぼ半日が過ぎていた。今日中は何もしたくないし、出来そうにない。
 無意識にレセンドを受け入れ、その結果弱さをさらけ出してしまったことが、彼女を打ちのめしていた。
 自分がまだ小娘に過ぎないことを思い知らされる。
 ―――兄さま、助けて下さい。
「姫さま」
 おずおず声をかけてくる者があった。何もする気にもならなかったが、仕方なく春陽はうっすら瞳を開いた。
 侍女はエーシェだった。彼女は困惑した顔をしていた。どうやら、塞ぎ込んだ春陽に声を掛けるのを侍女の誰もが嫌がって、結局春陽のお気に入りとされているエーシェがその役を押し付けられたようだった。
「お目覚めくださいませ。王太子殿下が姫さまをお召しになりました」
「………え……?」
 上手く反応できなかった。
 どうしたことだろう。声が出ない。
 外はまだ夕方といって差し障りのない明るさだったが、季節が夏ということを考えると、いつの間にか夜になっていたことが分かった。
「どうか早く。殿下は急ぎ参ずるようにとの仰せです」
 寝台に横になったまま動かぬ春陽に、エーシェは焦ったように言った。
 どくんっ
 心臓が大きく跳ねる。
(行かなくては)
 理性が必死に主張した。
 行かなくては、彼の元へ。
 わたくしは、そのためにこの国は来たのだから。
(ああ………)
 けれど兄さま。
 こんなに貴方が恋しい夜に、どうして彼の元へ行けるでしょう。
「嫌です」
 彼女の初めての拒絶がこの日であったのもまた、巡り合わせ。
「は………?」
「わたくしは行けません………っ!」
(会いたい)
 今日だけはどうか。
 許して。



 早くと命じたはずなのに、あまりにも長く彼は待たされていた。揚げ句、やって来たのは春陽ではなく、彼女付きの侍女だった。
 しばらく黙って侍女の釈明を聞いていたレセンドは、突然無表情のまま、手にしていたグラスを床に叩きつけた。
 最高級の薄いグラスは、注がれていたワインと共に、不快な音を立てて割れた。
「もっ…申しわけっ、申し訳ございません!」
 侍女は、瞬時に青褪めた。
「もう一度、姫さまを説得───」
「もうよい」
 その無機的な声に、エーシェは硬直した。
 王太子の整った顔が、泣きたくなる程に冷たい。
「どうした。早く出てゆけ」
 睨めつけられ、彼女は震え上がった。
「失礼いたしました………っ!」
 脱兎のごとく、慎みを忘れて逃げ出した侍女に、レセンドは目もくれない。苛立ちが彼の全身を支配して、それ以外のことを考えられない。
(今、お前は何を想うのか)
 寝室は静まり返っていた。
 暗闇に、レセンドただひとり。
 しかし今夜に限っては、安らぎが訪れることはなかった。
 夜はすでにその意味を失い、孤独はただ孤独でしかない。
 お前が来ない、それだけのことで。
『お召しになられるのなら、何時、如何なる場合でも』
 どのような思惑を重ねた言葉かは知らない。わたしに直接言った言葉でもない。それでもあの誇り高い公主はそう約したのだ。
「なのにどうしてお前は………っ!」
 苛立ち、苦しむこの心は。
 誰かに焦がれることなどないと思い上がっていた自分は、なんと愚かであったことか。邂逅の瞬間に、すでに道は決定されていたというのに。
(もう、遅い)
 絶望的に手遅れだと、レセンドは分かっている。
 黒き凍りの瞳はわたしを許さない。
 未来永劫、このわたしを。
 たとえわたしのこの激情を知っても、眉一つ変えまい。
 ならば───。
 深く、深く思い詰める。
(ならば、心など要らない)
 この手でその豊かな髪を梳けるのなら。
 そのしなやかな身体を抱き締められるのなら──それ以上は望むまい。
 けれど春陽はここに居ない。それさえ、出来ない。
 これ程までに彼女を求めたのは、今夜が初めてだというのに。
 お前は、わたしを拒んだ。
 レセンドの精神は疲弊しきっていた。
 そのまま長椅子になだれ込み、瞳を瞑る。
 今はもう、これ以上何も考えたくない。
 全てを忘れ去りたい。
 王太子はいつの間にか、そのまま寝入っていた。うたた寝など久しくないことだったが、やはり疲れていたからだろう。
 そして………夢を見た。



 静かな世界のなか、青年と少女がいる。
 目覚めたときには忘れるだろう夢のひとつに過ぎない。だがこれがレセンドと春陽に同じように与えられたのは、やはり意味あることなのかもしれない。
 夢のなかで過去は再生する。
「とうとう征かれるのですね」
 踵までの艶髪の少女がそう言った。
 黄色人種の特徴で、その髪も瞳も黒である。かなり身分の高い貴人であるように見える。
 しかしそれにしては、彼女は化粧っ気のない、少年めいた顔立ちをしていた。いや、それは彼女が纏う雰囲気が凜と引き締まっているから、そう感じさせるのだろう。衣装もまた、女物とも男物ともつかぬ、機能性を重視した不思議なものだった。
 対する青年の方は、地味な色合いの堅苦しい感じのす衣装だ。官服とはまた違うようだったが。この人種にしては長身で、痩躯だがひ弱な印象は微塵もない。この青年もまた、少女同様に高貴な存在であることはあきらかであった。
 二人はどこか似通った面差しをしている。
「ああ、しばらく宮を空ける」
 簡潔なやり取りであったが、言いようもない緊迫感があった。
「父さまの御駕親征をお止め出来なかったことを、わたくしは今でも悔いています。それなのに、今度は全ての皇子が出陣なさるとは。皆様、兵を率いる経験こそありますが、軍才を持つ方ばかりではありません。この宮から皇子を絶やして、何の意味があるというのです!」
 決定事項に口出しするなど、少女にしては珍しいことだった。それほどまでに少女は、反対であったのだ。何故なら皇族自ら出陣するということは、そのまま皇統が途切れる危険が伴うから。
「せめて皇太子を宮に留めおかれませ。皇帝と皇太子の両方が戦場に向かうなど、そのような危険は冒すべきではございませぬ。そもそもあの方は戦さ向きではいらっしゃらないし、恐れ多いことですが陛下と征太子(皇太子・陽征のこと)様の両名が命を落とすことがあれば………!」
  「出来ぬ。征太子様の出陣に対する決意は並々ならぬものがある。君にも分かっているのだろう、あの方がこのように意を曲げずにいることは初めてなのだ。それ程、決意は固い」
 青年は冷静にそう言ったが、彼にも少女の思いが分からぬでもない。
「それに、征太子様はこの宮を護る軍の司令だ。もし征太子様がその任にお就きになられなくとも、その軍が敗れたら宮は落ち、どのみちあの方の命は奪われ、国は敗北する。あの方が出陣しようがしまいが、負ければ同じなのだよ」
「けれど………!」
 真剣な少女に、青年は辛そうに顔を歪めた。
 陽香の戦況は苦しい。少女が不安に思うのも仕方ない。
 ただの少女なら、なんとでも口先で安心させてやることが出来る。だが一番に安心させてやりたい娘は、あまりに聡明すぎたのだ。
「まだ若く女である君を監国(天子が不在の場合、代理に政治的な実権を掌握する権限を持つ)にしたことを征太子は詫びてらしたよ」
 少女としても、それ以上の文句を言うわけにはいかなかった。そう、もう決まってしまったこと。
「………わたくしはどうすれば良いのでしょう」
 女たちは宮に残されて。
 何も成さぬまま、見守ることしか出来ない。
 噛んで含めるように、青年は少女を諭した。
「わたしが君の元に戻るまで、けして泣くな」
 少女は幼く、こくんと頷いた。
 そしてふっと表情を和らげた。
 ただそれは、不安げなものを残していたが。
「そのかわり、わたくしの願いもお聞き届けくださいませ」
 甘くねだるような言い方だった。青年も真剣な表情を消し、苦笑した。
「何だ」
「これが欲しゅうございます」
 少女が指さしたのは、青年の左手首に巻かれている、青玉の腕環だった。
「慎みないと思わないでください」
「思わぬ。これをわたしと思って巻いておけ」
 青年はそれを外して少女に手渡した。少女は大事に受け取り、自らの手首に嵌める。それは、細い少女の手首には少し大きかった。
 そして青年を見つめた。
「どうか」
 やっと届くか届かぬかといった、幽き声だった。
「どうか………」
 それ以上声にならない。
 少女は未来を感じとっていたのかもしれない。
 青年は黙って、少女の華奢な肩を抱いた。
 少女は哀しげに目を伏せ、皓い肌に長い睫が影を造る。
 青年は万感の想いを込めて、くちづけた。








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