春陽の章 [7]





 蒼穹が何処までも広がり、雲ひとつないよく晴れた日であった。
 まだ朝早くというのに、肌寒さは全く感じられない。太陽は眩しく、櫂城の前庭に集まる鎧を纏う男たちを照らし、今か今かと露台を見上げる彼らの眼を灼く。
 むんと、興奮した気配が立ちこめ、男たちの頬は蒸気している。
 遂に明日、彼らは戦いに旅立つ。
「吉孔明様万歳」
 規律を無視して、ふいに上がる声。
 しかしすぐにその声は、圧倒的な他の兵たちの熱に飲み込まれる。
「吉孔明様!」「吉孔明様!!」
「我らが救国の主!」
 熱狂的に叫ぶそのほとんどの者が、しかし吉孔明のことを最近までよく知らなかったであろう。
 吉孔明皇子はこの戦までは、なるべく地味に、常に皇太子・陽征を立てるように生きてきたのだから。
 だが今日限り違うのだ。
 広場を見下ろせる城の露台に立つ影があった。琥珀の光沢を持つ黒髪、涼しくも鋭い眼差し、意志強げな頬の線。それは長身痩躯の青年だった。纏うのは貴人のきらびやかな衣ではなく、鎧。
 兵士たちが彼を次期皇帝と認識した途端。
 うねるような歓声があがる。その数二万。ただし櫂軍だけで、である。このあと緯択軍と合流すれば、数はもっと膨れ上がる。
 兵たちは、吉孔明の言葉を今か今かと待っていた。
「ああ、我らが天子様!」
 そうだ。彼らにとって、吉孔明はすでに皇帝なのだ。
 耳をつんざく轟音。───圧倒される。
 吉孔明は堂々とした笑みを浮かべながらも、内心、肝が冷える心地だった。
 恐れがひたひたと足元からやってくる。夏だというのに寒気を感じている自分に、吉孔明が愕然とした。
 何という重圧、何という孤独!
 これほどまでの数の人間に囲まれ、必要とされながら、彼は玉座の冷たさを唐突に悟ったのである。
(父上、これが貴方の背負っていたものですか)
 偉大なる皇帝───炯帝陽龍。
 彼が昏君にならずにいられたことを不思議に思うくらいに、玉座は恐ろしい。
 うおおおおぉ……!
 それはもう、悲鳴にすら聞こえた。
 威厳を以て立つことは出来なかった。彼には、誠実でいることしか出来なかった。
「余は」
 吉孔明の声は、殊の外よく通った。人々は、前列にいるものから順に、口を噤みはじめた。
 やがて、静謐とさえ言える沈黙が訪れる。
 一言も聞き漏らすまいという、兵士たちの心が伝わってくる。
 彼らは、自分たちが命を預け、国を預ける男を見定めようとしている。
「余はこの地、櫂にて宣す」
 己の背中を流れる汗が、恐れのためか、熱気のためか、もう吉孔明には分からない。
「蛮なる侵略者を誅し、受けた屈辱雪ぐため、陽香王朝が後継たる余、決起する。
 義ある者、勇ある者、知ある者、いずれも悉(ことごと)く余に続くべし。
 余は炯帝が第二子・吉孔明なり」
 短い言葉だった。熱っぽく理想を語ったわけでも、奇を衒ったものでもない。それでも。
 一言一言をしっかり兵士たちを見据えて語る様は、ただでさえ興奮状態にあった彼らを熱狂させる。
 再び、怒号が上がる。
「ガクラータを倒せ!」
 その声に吉孔明は小さく、頷く。そうだ、ガクラータは倒さねばならない。
 わたしはそのために、天子となるのだから。
「倒せ!」「倒せ!」「倒せ!」
 兵士たちは、それが隣の者が発した声なのか、それとも自分が発した声なのかも分からぬ様になっていた。
 ───ここに、吉孔明皇子を頭とした、反乱軍が起こる。それは陽香降伏から、わずか二カ月と半のことである。



「……兄上」
 まだ怒号しつづけている広場をそのままに、露台を引き上げた吉孔明を待っていたのは、緋楽であった。
 彼は緋楽を見て、孤独な場から救い出されたような心地がした。表情を綻ばせる。
「待っていてくれたのか」
 だが、対する緋楽の表情は堅かった。
 常に彼女が浮かべている穏やかな笑みはなく。
「緋楽?」
 吉孔明は不審そうに妹を見た。
 ─────兄上は、ご決断できなかったのですね
 緋楽は、兄には聞こえぬようにそう呟いた。
 この日に至っても、兄の方から何も言い出さぬということは、そういうことなのだろう。兄があくまで忘れた振りをするのならば。
 ならば……わたくしが実行するだけのこと。



*     *     *



 王太子襲撃事件からほぼ一カ月たった八月上旬。この頃にはレセンドの傷もかなり癒え、彼は今日、王宮への参内に復帰した。しかし本来ならまだ養生しなくてはならない身体である。
 それを無理をして仕事に戻ったのは、尋常ならぬ慌ただしさが王宮を襲ったゆえである。それこそ己の感傷に浸っている暇などなく、王太子は復帰第一日目から働きに働いた。
 尤も、慌ただしさのひとつ目の原因は、己の襲撃事件に関することであったから、彼としても不平を言う訳にはいくまい。
 未だ疑いの晴れていなかった王妃カゼリナが、五日前、ついに国王の名の下に、王侯貴族の監獄であるスリンタ城に連行されたのだ。王妃転覆を狙う反カゼリナ派の激しい攻撃の結果である。反カゼリナ派の大部分は、レセンドを次代の国王にしようと擁立する者たちである。つまり、レセンド自身が望んだことではないにしろ、間接的に彼がカゼリナを窮地においやったのだ。もちろん王太子自身はカゼリナの無実を知ってはいたが。
 無論、国王キーナ三世は抗った。しかし至尊の力をもってしても、その流れをくい止めることは出来なかった。同日、国王は不承不承ながら枢密院を収集し、三名の枢密官に王妃の審問に当たらせた。
 だがガクラータに降りかかってきた問題は、これだけではなかった。
 十二日前、陽香総督(植民地の長官)であるソヴァンス公から、やっかいな報告が届いたのだ。
 その報告は王太子を瞠目させるに十分であった。朝楚が、ついに逃亡中であった赫夜公主の身柄を拘束したというのだ。その公主が向かっていた先は泰義伯が領地・櫂領。その櫂王・泰義伯はもう一人の公主・緋楽をすでに匿っているという。
「反乱が起こるな……」
 知らず、呟いていた。櫂王は必ず緋楽公主を旗頭に大規模な反乱を起こす。
 ガクラータ王国は、属国の朝楚国とは違って、取り逃がした春陽以外の公主たちの存在に、それほど注意を払っていなかった。勿論、落都の際のあの包囲の中を逃げ出されたと知ったときは、しまったと悔やんだものだったが、しかしそれはそれで重大問題には思えなかったのだ。
 植民地の反乱など、起こるべくして起こるのだ。それは必然であり、どんな強国でも、起こること自体を防ぐことはできない。公主が味方につこうとついくまいと何者が反乱を起こす。それに、公主ごときが役に立つわけでもなし、単に象徴として祭り上げられるだけであろう。ならば捨て置いても構わぬ――と。彼でさえが思っていた。
 だが今現在は違う意見だった。かの国の公主を自国の温室の花である王女と同じに考えてはならない。朝楚はこのことを主張し続けていたし、今の王太子は春陽という存在を知っている。
 触れたらざっくりと傷つけられそうな早熟の少女。
 そんな少女が慕う姉である。尋常の者ではないだろう。
 ――レセンドはまだ知り得ないが、勿論すでに反乱は起こっている。七月三十日、ちょうどカゼリナ王妃がスリンタ城に連行された日、櫂軍は櫂領を出発し、緯択軍と合流した。そして昨日の八月四日、陽香軍はガクラータ王国の陽香においての本拠地である斉城を奪還したのだ。しかし流石の王太子にもそこまで予想できることではなかった。この時点ではまだ、彼は吉孔明という存在を知らなかった。皇太子以外の皇子の名など覚えていなかったし、まして生き残りの皇子がいたなど想像もしていない。それ故、レセンドは漠然とした不安を肌に感じながらも、強引に思考を戻した――戻したところ、だった。
「殿下」
 ほっそりとした女性の声だった。忙しい中、やっと午前中の職務が一段落して休憩に行くところを狙いすますよう――実際狙いすましたのだろう――呼び止められて、少々不機嫌になりながら、彼は振り返った。声の主がよりにもよって、この忙しさの『原因』の“母親”だったことが、それに拍車をかけていた。
 四十代半ばの品のある女だった。第三妃セリース。第二王子アルバートの母親である。
「何か」
 硬く問うた王太子の銀の瞳から、彼女は目を逸らした。苛々してレセンドはセリースを不躾けに眺めた。
 いじけた女だと今更ながら思う。父王キーナ三世に依存してようやく生きてゆける気弱で愚かな女。王妃カゼリナはまだ僅かなりとも潔さを持っているだけましだし、第二妃ルカといえば、一応自分の母親ということもあって許容できる。だが目の前にいる女だけはどうしようもなく嫌悪感を拭えない。拭う必要もない。それでなくとも彼女はアルバートの母親なのだから。
 しかし第三妃は野心を全く持たないという美点があった。大国の妾妃としては、その美点は他のどの欠点も補ってあまりある。どうせ自分の妻でもなし。
「……不肖の息子のことでございます」
 羞恥を耐えての台詞であろう。腹部で指を組んだ両手に力が入っている。
 彼女の性格では、アルバートの罪はとうてい許せざるものに違いない。
「アルバートがどうしました」
 再び問い返した怜悧な王子が、本当は全てがアルバートの所業だと知っていて、その上で何でもないという顔をしているのは疑いようもない。しかし、流石に第三妃は言質を与えるようなことは言わなかった。それでもかなり真実に近いことを口にする。
「愚かな息子に、その能力に見合った適当な地位にお与えください。大望に身を滅ぼす前に」
 ある程度以上の年齢に達した王子たちは、それぞれ王子としても職務につくが、第三妃が言っていることはそれが異なる。つまりアルバートが二度と王位を望めぬように、彼に叙爵し、臣下に下らせろというのだ。
 過去にはたまに側室の王子が、たいして実権を持てないのに不満を持ったり、王位を狙っていると思われるのをさけるために、臣下に下っている。セリースはそれを指しているのだ。一度、臣下に下ると、王族とは認められるものの、よっぽどの事情が無い限り王位継承権は廃棄される。少なくともガクラータではそうだった。
「それはわたしの権限ではありませんよ」
 レセンドが空々しく微笑んでみせると第三妃セリースはしばし沈黙した。確かに彼の言うとおり、よほど政治が腐敗せぬかぎり、王子たるアルバートの叙爵を成すことが出来るのは唯一国王だけだ。しかしセリースは言葉を重ねた。
「いずれ貴方のものです」
 近いうちに。
 はっとしてレセンドは第三妃を見た。彼にさえ伏せられていた事実も、妃ならば知っていてもおかしくない。彼女は王太子の注意を喚起するため、あえて王との約定を違えてそれを漏らしたのだ。
「お加減が……?」
 第三妃は頷く。
 それは危険な兆候。均衡の崩壊。だが、その存在に気づいてさえいれば、回避は容易だ。相手よりも先に知ったならば、むしろその事実は、己を優位に立たせてくれる手札となる。
「――よく知らせてくれました。しかしながら、それなら尚のことわたしでなく陛下にお頼みなさい。わたしが陛下に代わって政務ととってからでは手遅れでしょう」
 それこそをアルバートは憎く思うのだから。
 口唇を噛んで、セリースはその言葉を聞いた。
「実はもう申し上げたのです。しかしアルバート自身が望まぬかぎりは、と。陛下は何と思し召しなのでしょう?─――殿下を後継者に定めながら、何もなさらない。そもそもあの方が殿下を――」
 づらづらと続きそうであった言葉を、レセンドは冷たく遮った。
「皆まで言うことは許されませんよ、セリース様?」
 はっとしてセリースは口を噤んだ。王太子が制止してくれなければ、言ってしまっていた。
「……出過ぎたことを申しました」
 『そもそもあの方が殿下を王太子とは呼ばず、嫡子のランシェルやアルバートと同じように“王子”と呼ぶのは何故か』――セリースはそう言おうとしたのだ。こんな疑問は、キーナ三世が次期国王の擁護者たる義務を怠らなければ、誰も覚えなかったに違いない。
 それにしても第三妃もよほど揉め事が嫌いなようだ。彼女はレセンドに、自分の息子を追い落とせ、と迫っているのだ。
 王太子は第三妃への答えになりそうな台詞を零した。
「陛下はランシェルが生まれたとき、本当は宮廷の倣いどおりにわたしの太子位を廃したかったのだと思います。けれど陛下は、わたしと争ってまでそれをする価値を見いだせなかった――」
 もし、その身が健康ならば。レセンドは胸中で呟く。
 父王は、自分に似ずに育った上に側室の子であるわたしから容易く王太子位を取り上げたに違いない。そして生まれたばかりの正室の王子であるランシェルを王太子に立て、好きなように教育しただろう。だが父王には、よそ見をする暇などなかったのだ。彼の夢を実現するには、健康な者が寿命を全うする程の年月を与えられたとしても、まだ足りないのだから。



「兄上と何を話したのです?」
 王太子と別れた第三妃は、今度は自分が待ち伏せされていたことを知った。不快に彼女の瞳は翳る。
「お前には関係のないことです」
 母親が息子に向けるのとは思えぬ冷ややかな表情でそっけなく言い、アルバートの脇を擦り抜けたが、次の瞬間、二の腕をきつく掴まれ、引き寄せられた。
「関係ない?」
 薄笑いを浮かべて、ますます力を込めて細い腕を掴んでくる息子に、僅かに怯みながらも第三妃は睨めつけた。
「お前に何も後ろ暗いことがないのなら、気にすることはないでしょう」
「後ろ暗いことならばありますよ」
 母親の糾弾に、アルバートは厚顔にもあっさりと肯定した。
「白々しいですね母上。知っているのでしょう、わたしが兄上を襲――」
「お黙りなさいっ!」
 第三妃はヒステリックに激した。
「お前はなんと愚かなことをしたのです。お前ごときに手に負えるお方ではないというのに」
 怒りと侮蔑に彼女は醜く顔を歪めた。自分の息子が、どうしてそのように畏れ多い野心を持つのか、とうてい彼女には理解できない。彼女にとって、己の平穏こそが至上であった。息子の野望が潰え、暴露されたならば、下手をすれば自分までが罪を被る。それだけは彼女は避けたかった。
 アルバートは薄笑いを消した。
「あの男があの方を苦しめるからですよ」
 その女性のこと口にするとき、息子の瞳は真実純粋さを帯びる。それを知らぬでもないのに、セリースは認めない。
「お前はまだそのような戯言を」
「母上は、あの方の不遇に心を痛めるわたしの言葉を戯言と?」
 レセンド王太子を息子が憎むのが、王位欲しさ故だけの理由ならば、認められなくともまだ理解は出来るのだが……。
 腹立たしげにセリースは溜め息をつく。
 彼女のような人間は、禁忌の恋というものを理解することはないのだ。
「それが政策というものです――何故、女であるわたしが、大の男であるお前にこのようなことを悟さねばならぬのです」
 政策だと? そんなもののために、何故あのように心の美しい女性が悲しまねばならぬのか。―― 許せはしない。
 昔は王位のみが、わたしの欲する全てであった。異母兄の命を奪うのは、憎しみというより、王位欲しさゆえだった。だが今は違う。確かに今でも王位は欲しい。だがそれは、王位継承権を持つのがあの男であるからだ。あの男から奪うからこそ、価値があるのだ。もし王太子があの幼いランシェルであるのなら、わたしは王位などにはもはや目も暮れなかったに違いない。今やわたしの基準はあの方の幸せ、なのだから。



*     *     *



「――どういうことだ」
 腹心の部下に調べさせたことの報告書に目を通していて、レセンドはそう呟いた。
 報告書には、襲撃事件の日までの二週間のアルバートの行動が、かなり細かく記している。それでもアルバートは、襲撃事件を計画していたと分かるような痕跡を全く残していなかった。あの襲撃者のリーダーから聞き出したアルバートの協力者との接触が読み取れないのだ。
 だがレセンドには、それについての驚きはなかった。アルバートが証拠隠滅に長けていることは、過去の経験からとうに知れている。  アルバートは今まで何度もレセンドの命を狙った。腺病質そうな外見そのままの性格をもつ異母弟は、それらの事件の度に失敗したものの全く証拠を残さなかった。無能だが、そういう才覚だけはあるのだ。
 しかし今回の襲撃は、証拠隠滅の見事さはいつも通りなのに、計画があまりに杜撰である感が否めない。
 その違和感が、王太子に先程の呟きを漏らさせたのだ。
 確かに、襲撃されてレセンドは命の危険に晒された。運が悪ければ、死んでいただろう。襲撃者はプロの暗殺者ではなかったが、腕はそれに勝っていた。アルバートがレセンドを殺せなかったのは、彼の落ち度というより、レセンドの方が強すぎたのだ。アルバートが選んだ襲撃者相手に三対一というのは、口で言うほど生易しくない。
 だがもしレセンドを殺せても、アルバートには王位は転がってこない。ランシェルがいるからだ。つまり、レセンドを殺した後にこそ策略が必要なのだが、アルバートは今回、それを練っていなかったようにレセンドには思える。
 もちろん、流石に全く計画を立てていなかったということはない。現在の展開から察するに、アルバートは暗殺の罪をカゼリナ王妃に着せることで、レセンドの死とランシェルの廃嫡という、一石二鳥を狙っていたのだろう───だが。
(そんなに都合よく事が進むと、奴は本当に信じたのだろうか)
 たとえば王妃カゼリナに罪を着せ損なった場合。そうなれば、アルバートは自分で自分の首を絞めたことになる。わたしが殺され、しかもその犯人がカゼリナではないというのなら、家臣たちにランシェルが王太子となることを反対する理由はなくなる。なんの障害もなくなった嫡子のランシェルは、つつがなく王位を継ぐだろう。アルバートは、ランシェルに付け入る隙がなくなり、国王への野望は絶望的になる。
 そして、わたしを殺せなかった場合(現況はまさにこれだ)もそうだ。アルバートは取り敢えず、当初の計画通り、王妃に罪を着せるだろう。だが、もしわたしがランシェルを完全に追い落とすいい機会であると、王妃が冤罪と知りながら彼女を見殺しにすれば、今度はわたしが、なんの障害もなく国王になれる。
 わたしとランシェルの支持が拮抗しているからこその、隙である。その隙を突くしか、側室の王子であり次男であるアルバートは、王位を手にすることができない。よほど上手くやらないとアルバートの野心の成就はないのだ。
 今回の計画はある意味、賭だ。失敗したら、アルバートは二度と王位を狙えない。持ち前の巧妙さで、自分が黒幕だという証拠を隠しきることはできるだろうけど。アルバートもそのことをよく分かっているはずだが。
 まるで焦って立てたような、計画だ。
「それとも……」
 わたしから王太子位を奪うことではなく、わたしを殺すこと自体が目的であるかのか。
 ひどく信じがたい気持ちで王太子はその可能性を思いつく。彼は、アルバートがそこまで自分を憎む理由が、ひとつだけ心当たりがあった。
 だが、まさかという感が強い――今までは、その可能性をはなから無視してきた。
 しかし。
 レセンドは、かつての彼ではない。今なれば、弟王子の狂おしい想いも理解できるような気もする。
 人間には、理屈ではどうにも出来ぬことがあるのだ。
 だからこそ、彼は事実を確認すべく椅子から立ち上がった。
 復帰初日である身にとって、今日の忙しさは殺人的ですらあった。報告書も読み終えたのだから、早く寝てしまいたいのだが。
 向かうのは ――王宮の地獄牢。



 今夜は何の用であろうと、彼は考えた。
 久しぶりのレセンド王太子の訪れである。
 銀の青年は牢の中に入ると、清潔とは言い難い備え付けの椅子に、何のこだわりもなく座った。それと向かい合うように、囚人は寝台に座る。牢番が慌てて武器を手に、囚人の動きを見張った。
「もう一度、きちんと聞きたいことがあった」
 と、レセンド王太子は切り出した。
 どこか印象が柔らかくなったように思うのは、俺の気のせいだろうか。それとも、口封じに殺されるかもと警戒していたせいで、俺は色眼鏡で彼を見ていたからか。今なら、この青年は冷たいが残酷ではないことを知っているが。
「襲撃をかけろという命令を受けるまでに、アルバートに変わったことはなかったか。……誰と会ったのかはもう聞いた。ただ、どんな様子であったかとか、私生活の変化などを知りたいのだ」
 言われて、囚人は思いだろうとした。
 変わったことなどあっただろうか。ここに投獄されてからけっこうたったので、あまり覚えていない。
 反応のない囚人を見て、レセンドは言葉を足した。
「例えば女関係や、アルバートに対する侍女の噂などは」
 囚人の記憶の糸に触れるものがあった――そういえば。
「アルバート王子から、妻のものではない香水が……」
「香水?」
 アーマ大陸で香水が使われるようになった久しい。始めは悪臭を隠す役割しかなかったこれも、今では趣味として調合するほどに、高貴なものとして認められるようになった。
「侍女の噂でそういうのが。俺には香水の嗅ぎ分けなど出来ないで断言できないのですけど。ただ、アルバート王子はこれまで特に寵姫を置いていない人でしたし、もし戯れでそういうことがあった日でも、本妻のものでない香水を、いつまでも身体のまとわりつかせるような人ではないのに、と侍女たちが」
 むしろ、女の匂いを嫌悪するような人でしたから。
 男の言葉に、レセンドの中に、確信が広がってゆく。
 (やはり、そうなのか。) 
 だが、決めつけてはいけない。彼は別のことを聞いた。
「陽香の公主が初めてこの国の夜会に出席した日、アルバートが何時頃に帰ってきたのか知っているか」
「この宮殿のライトアルハウスで催された夜会のことですね。その日は確か、……深夜です」
「それは深夜にアンザゲット王宮の自室に帰ってきた、ということか? それとも深夜にこの宮殿を出た、ということか?」
 囚人は訳の分からない、という顔をした。どう違いがあるのだろう。
「深夜にこのシュナウト宮殿にお迎えにあがり、そのまま王宮までお送りしましたが?」
「ということは、深夜までアルバートはこの宮殿にいたのだな? どこにも寄り道をせず、お前が迎えに行くまでここにいた、と」
 しつこく繰り返すレセンドを不思議に想いながらも、囚人は頷いた。
 ――確定だ。
 レセンドは胸中で呟いた。
 アルバートがあの日、深夜に王宮に帰ったことは、調べさせていたから知っていた。だが、それが深夜までこの宮殿にいたからか、夜会が終わってからどこかに寄り道をしたからなのか、今までは気に留めていなかった。
 寄り道をしたからではなく、深夜まで宮殿にいたから帰りが遅くなったということは……。
「あの……?」
「アルバートはあの夜会は春陽の顔を見に来ただけで、始まって早々に抜けたのだ。つまり、深夜までこの宮殿にいたはずがないのだ」
「ですが、わたしたちは……」
 確かに深夜に宮殿に迎えに行ったのだ、という囚人に、レセンドは「そうだろうな」と言っただけだった。
 それきり黙り込んだレセンドに、囚人は居心地が悪くなって声を掛けた。
「それで……アルバート王子を起訴できそうですか……?」
 その言葉に、レセンドはじっと囚人を見た。
(そろそろ潮時、か)
 彼は胸中で呟く。
「牢番!」
 突然大声を出したレセンドに、無言で王太子を見守っていた男が、すっとんでくる。
「な、なんでございますか!」
「この男を始末しろ。もう邪魔だ」
(え……?)
 ぽかんとして囚人は、王太子と牢番とを見比べた。惚けていたのは自分だけであった。牢番は深く頷いている。
 上手く反応できないでいる心とは裏腹に、気がつくと口は、喉も裂けんばかりの大声を出していた。 
「だっ……だ、騙したなぁぁっ――っ!!」
 悪魔と罵っても、王太子は特に感銘を受けなかったようだ。彼は暴れることを思いつく前に、牢番に早業で押さえこまれ、設置されている拘束具で両手両足首を壁に張り付けられていた。
「お身体が汚れます。地上にお戻りになられるか、せめて後ろに退いてください」
 喚き続ける囚人を無視して言った牢番の言葉に、王太子は言われた通りに五歩程下がる。
 憎悪で瞳をぎらつかせ、しかし逃れることは適わない。囚人は王太子を信じた自分をも呪った。そして彼は、王太子が自分の妻子にまで手を掛けるのではないか、と思いついた。なにしろ王太子は、自分の口を割らせるために、娘を強姦させると脅迫した前例がある。
 慌てて彼は王太子に訴える。
「せめて家族には手を出すな。あいつらは何も知らないんだ!」
 レセンドは囚人の必死な様に、肩をそびやかした。
「手を出すも何も、お前が襲撃に失敗した時点で、アルバートが口封じして、もう生きていないが」
 表情一つ変えずそう言って、王太子は早くしろと牢番を促した。それから傲然と付け加えた――「わたしの命を狙っておいて、生きて帰れると本気で信じたのか?」
 絶句したまま、涙さえ浮かべることも出来ない囚人に、迷いのない牢番の刃は振るわれた。



*     *     *



 朝を迎えてキーナ三世は、常と同じく早くに目覚めた。豪奢な寝台の中で、けだるく瞳を開く。
 彼は最近、身体の調子があきらかに悪い。高熱を出したかと思うとおかしな咳がでるし、胸もときどき痛くなる。
 だが、彼はゆっくり休んでなどいられなかった。蒼ざめて、無理なさってはいけませぬと口を極める第二妃ルカや第三妃セリースの言葉にも、彼は説得されなかった。それも仕方ないことである。今の王宮は混乱していた。それに、第二妃も第三妃も、自分たちの息子たちの争いから起こった騒ぎだということもあり、あまり強く口出しは出来なかった。
 今日も気の重い仕事をせねばならぬ――王妃を無実と知っていながら、捕らえねばならなかっただけではなく、これから幾人もの王太子派を相手に戦わねばならない。彼らは王妃、ひいては第三王子ランシェルを蹴り落として、レセンドの地位を確固たるものにしたくて堪らないのだ。
 戦うのが貴族どもだけならまだ良い方だ。もしかしたら、キーナが一番苦手とする息子……レセンド自身が出ばってくるかもしれない。
 レセンド自身は、カゼリナの無実を知っている。だがレセンドは王妃が冤罪と知りつつ、これを好機として、本気でカゼリナを潰しにかかるかもしれない。
 やっかいなことだ。
 あれの気性を厭いながらも、余があれを王太子位を廃させぬのは、その英邁さゆえ。となると敵になるのはキーナでさえ避けたかった。キーナは戦場では霸者であるが、王宮内では必ずしもそうであるとは言えなかった。
 彼はその威光と武力で貴族たちを従わせていたが、今度の相手は謀反人ではないのだ。
 そこまで思って、キーナは寝台から起き上がろうとした。
「 ――?」
 おかしい。
 ようやくキーナは己の身体に起きた変化に気づいた。
 身体が、動かない。



 瞳を見開いて、春陽は信じられない、と言った。国王キーナ三世が病褥についたというのだ。もちろん、王太子が冗談などを言う性質でないことはよく知っていたが。
 レセンドを見ると、自分のそのような反応は予想済みであるらしい。
 春陽は今まで、キーナ三世は病から縁遠いと思っていたのだが……。
「けれどこのこと、箝口令が敷かれているのでしょう? わたくしに気安く漏らして良かったのですか」
「お前は誰にも言わぬだろう。それにいずれ誰もが知ることになる」
 国王が生まれつき身体が弱いということを知る者は少ない。無論、妻たちや王子、王女はそのことを知っていたが、重臣でさえも一部の者しか知らない。多くの者にとって彼は、畏怖をもって語られる霸者であるのだ。だが、無理を重ねたせいか、ここ数年で彼の身体は急速に衰えてきていた。彼が陽香侵攻を焦ったのも、このためだ。それに加え、ここ最近の心労が原因で、ついに彼は倒れたのだ。
 それにしても、セリースから最近体調が悪い、と聞いてまだ一週間もたっていない。
 考え込んだレセンドを、春陽は複雑な想いを抱いて見つめた。
 レセンドの容貌は、端正だが、美貌という程に華やかではない。むしろ禁欲的だ。その冷たい顔立ちを見ながら、春陽は彼の前で無理をしている自分を自覚した。
 あの日、春陽がレセンドのもとへ行かなかったことは、お互い口にすることを避けていた。次の朝、王太子が何事もなかったように接してきたので、春陽も安堵してそれに乗ったのだ。だが、本当に何もなかったことになど、出来はしないのだ。
 彼女は自分の心を扱いかねていた。もはや二人の関係は完全に変わってしまったことを知っているのに、未だ自分の心は変化に戸惑っている。
 青年の孤独は彼女を哀しくさせる。青年の愚かさは彼女を嘲笑わせる。
 二つの相反する感情は鬩ぎ合い、春陽は迷い続ける。
「疲れてらっしゃる」
 溜め息をついたレセンドに言うと、彼は眩しいものを見るように目を細めた。そのような表情は、二人きりの夜の寝室でしか見せないことを春陽はすでに知っていた。
「ああ、疲れたな」
 胸元を崩して、王太子は応じた。そんな彼に、春陽は意識して優しく笑みを浮かべた。そう――媚びたのだ。
 別に今に始まったことではない。春陽は出会ったときすでに、王太子に媚びていたのだ。誘うのではなく、媚態を見せるのではなく、王太子が好む『誇り高い公主』を演じることによって、結果的に春陽は彼に媚びていたのだ。
 動じることのない冷静さ。誇り高い公主――必要以上にそうあろうとしたのは、そんな女をレセンド王太子が望んでいたから。
 今、王太子に優しくするのも、彼がそれを望むからに外ならない。
 ああ、ついに王太子はわたくしに心を許した。
 わたくしが狙った通りに。
「そうだ、春陽」
 レセンドはふいにそう言った。
「言い忘れるところだった。お前、楽や踊りをやれると言ってたな」
「?……ええ」
 春陽は楽や舞は女の嗜みとして学び、それなりの腕前だ。もっとも、二人の異母姉ほどではないが。
「先日、朝楚から楽士が献上された。明後日、この宮殿に来る。しばらくお前のものだ」
「……よろしいのですか?」
 献上するくらいだから、腕のよい者たちなのだろう。陽香では才能のある楽士は宝とされていた。
「よい。これは父上ではなく、わたし宛に送られて来るものだ。父上が芸術に興味ないのは有名だからな」
 レセンドはそう言ってから、まだ春陽が怪訝な顔をしているのに気づき、説明した。
 この忙しいときの楽士を送ってこられたところで、シュナウト宮殿で演奏会を開く暇などあるはずがなく、とはいっても、自分のところにきた献上品である楽士を、母親などに押し付けるわけにもいかない。結局のところ楽士を腐らせるならと、彼は春陽のことを思い出したのだ。
「それは――もったいないこと」
 そう呟いて、春陽は自分がもう長いこと楽の音に触れていなかったことに気づいた。ガクラータ王国に攻められてからだから、何カ月になるか。
 ガクラータとの戦争が始まっておらず、朝楚国と同盟を結んでいた頃は、故郷ではよく朝楚の楽の音に合わせて舞ったものだ。
 春陽は切なくそれを思い出した。まさか決定的に自分の運命を決めてしまう日が訪れることも知らずに。



*     *     *



 薄暗い斉城の一室。
 ガクラータ王国の占領から解放され、連日沸き立っているはずの斉城の中で、ここだけが冷や汗が出るほどの緊張感に包まれていた。
 いや、むしろそれは哀しみだろう。
 大切な者を失おうとしている兄妹の嘆き。
「――兄上」
 自らの告白に対して、兄はしばし硬直していた。
「お前は……っ!」
 妹の呼びかけにはっとして、彼はようやくそう叫びをあげたものの、怒りのあまりそこで絶句する。
 何も考えられない。目の奥が真っ赤になる。
 吉孔明が斉城を奪還したという報告が櫂城に届くとすぐに、緋楽は櫂城を出発して斉城を目指した。そして今日、到着したのだ。
 彼女は到着するなり、吉孔明を呼び出した。そして……自分が春陽に向かって、陽香の反撃を知らせる使者を秘密裏に送ったことを、告げた。
 兄は想像通り……脆く、崩れた。
 祖国の反撃を知った春陽は、かねてよりの約定そのままに、彼の国の王族の誰かを暗殺する。
 春陽は、陽香の反乱を、より有利に進めるための捨て駒になる。彼女はそのためにガクラータに渡った。
 そして春陽の生命は、罪人として潰えるのだ。
 儚い海の泡沫のように美しく、しかしあっけなく。
 そのときのことを考えると、吉孔明の胸は絶望で震える。
「何をお怒りになるのです。ご覚悟のうちではなかったのですか」
 これほど明確な怒りを表す兄を見るのは久しかったが、緋楽は折れなかった。あくまで理性的に振る舞う。
 そんな妹に吉孔明は、表情を消して言う。
「お前はわたしを蔑ろにした」
「次期皇帝たる兄上に諮らず、独断で行動に移したのは謝罪いたします。弁解の余地はございません。けれど兄上――それは建前ではありませぬか。貴方はそのような理由で激しているのではない……そうでしょう」
 吉孔明は言葉を失う。
 想い人の死を拒んだがゆえに、吉孔明はその約定を忘れたふりをしていた。春陽に自分たちの反撃を知らせまいとしたのだ。遠からず、春陽は結局それを知ることは分かり切っていたが。
 そして、自分がいつまでも行動しないから、妹が動いたのだということも、彼は分かっていた。本来ならば、自分がすべきことであった。彼女に国を託された者として。
 それでも、吉孔明はどうしても、春陽の命を諦め切れなかったのだ。
「わたくしは恋に我を忘れる兄上など見とうございませぬ。今一度、御自身の立場を理解くださいますよう」
 あまりに冷たい言いように、吉孔明は堪らず叫んだ。
「───お前がそれを言うのか……っ!?」
 何より春陽を慈しんだお前ではないか。
 吉孔明の言葉に、緋楽は見えぬように歯を噛み締めた。
 わたくしとて、このようなことを言いたくなどない。わたくしとてつらいのだから。───しかし緋楽は返す言葉を飲み込む。代わりに言ったのは、真実の想いとは遠い言葉。
 兄皇子に吐く言葉は、そうして緋楽自身に疵を残す。
「それが陽香のためなれば」
 ───ならば陽香など要らぬ!───
 刹那の、しかし確かに覚えてしまった考えに、吉孔明はぎくりとした。それを無理やり見ぬ振りをする。
 突き詰めて考えることは、恐ろしかった。
「───あれの力を借りなくとも、我々は戦える……」
 言い訳めいた吉孔明の台詞を、英邁な妹は容赦なくたたき伏せる。正論は人を追い詰めるのだということを、吉孔明は知った。
「勝利の可能性は高ければ高いほど良いのでしょう? それに、敵国の王族を殺すことはむしろ、あの娘にとって希望なのです。敵国で一生暮らすよりも、陽香の役にたって死ぬことの方が、あの娘にとっては救いなのです。───生殺し状態でいるあの娘の願いを、お察しください」
 言い終わって緋楽が兄を見ると、彼はかくんと膝を床について、両手の掌で顔を覆っていた。
 自制心に富んでいるはずの兄が、まるで傷つきやすい少年のように。
「分かっているのだ……分かって!」
 滂茫の涙をとめる術を持たず、叫びをあげた吉孔明。
 心を切り裂く、悲痛な声だった。
 緋楽にはそれを見つめることしかできない。
 ああ、この戦さはどれほどの犠牲を払えば結末を迎えられるのだろうか。
 父や母の死だけでは飽き足らず、赫夜が捕らえられた次は……春陽が。
 心の伴侶を失おうとする兄。
 国のために殉じることを決めた異母妹。
 わたくしたちは何処へ流れてゆくのだろう。
 わたくしはどれほど大切なものを失えばよいのだろう。
 ―― 倖せでいてほしかった。
 隠すしかない恋ならば、せめて倖せでいてほしかった。
 いつも吉孔明と春陽の恋を見守っていた緋楽は、そう思う。
 どんな形でもいい。倖せでいてくれればと、彼女はいつも祈っていた。
 そんなささやかな恋さえ実らずに。
(しゅ……んよう……)
 心は大粒の涙を流していたが、彼女の瞳は乾いていた。
 緋楽は現実の涙を、殺す。
 彼女の瞳は、厳しく虚空を睨んでいた。
 泣くことは、わたくしには許されていない。
 わたくしこそが、この手で春陽に死の道を指し示したのだから。








戻る 進む



>>小説目次へ




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送