赫夜の章 [1]





西天に燠きたる夕陽影
宗陵の山 赫々の間
馬の聞きつけるに ただ闇赤く
風塵の都 焉より良きなるは莫し



*     *     *



 朝楚国の都は広絽(こうろ)という。広絽は区画がきっちり整理されていない雑然とした都市で、陽香人にしてみれば洗練されていないと感じるだろう種類の賑やかさがある。
 そうというのもこの広絽、もともとは一時的な仮の都として誕生したからである。
 きっかけとなったのは、先々代の治世に結ばれた隣国・陽香との同盟だった。陽香は四成大陸中から商人が集う国で、この国と同盟を結ぶということは軍事上というより経済的なその利益を考えての先々王の決断であった。それによりこれまでになく貿易が容易に、そして盛んになるだろうことになったが、その障害となったものこそが本来の都だったのだ。
 本来の都は陽香の都・栄屯からあまりに遠過ぎた。それ故、政治の機能だけを広絽という町に移し、王族は都に住むという二重政治がしばらく行われたが、結局は上手くいかず、いそいで王宮を造らせ、なし崩しに広絽が都となったのだ。
 しかし、見切り発車的に都を遷都し、区画整理を後回しになっているうちにずるずると町は大きくなり、その結果が今の広絽だった。
 細い路地にひしめく群衆に紛れて、僅かな共を引き連れひっそりと歩く男がいた。
「しけてるな」
 男は低く呟いた。
 都は相も変わらず活気に満ちていたが、どうにもその活気が嘘くさい。国が乱れている証拠だ。陰気な、不安そうな気が、騒音にひっそりと纏わりついている。
 表通りを歩いていると苦もなく、あきらかに四成大陸の者ではない人間を見つけることが出来る。きらびやかな色を髪や瞳に彩する遠い国の軍人や役人たち。声高に耳慣れぬ言葉を使い、この国の風習に従うということを考えもしない。お前たちが自分たちに合わせるのだと言わんばかりの、征服者の態度。
 つい先日まで国民たちは陽香を朋友としてきたのだ。それが急に庶民にとって聞いたこともない異なる大陸の国と結んで、陽香を倒した。国民が不安に思うのも無理はない。
 それでもまだ、ガクラータ王国と対等な関係で協力し合い、陽香を打ち負かしたというのなら、納得も出来たのだ。――朋友といえど、全く軋轢が存在しなかった訳ではない。陽香の方が格上という認識が両国民から拭うことは出来ず、朝楚にとって陽香は劣等感を刺激する国でもあったのだ――しかしそうではなかった。ガクラータと朝楚の関係は、本国と属国でしかない。属国としては破格の扱いを受けても、対等どころか今や完全に従属している。陽香を裏切らなければガクラータの敵と見なすと、脅されて従った時点で、両国の力関係は決まっていた。
 そうまでして、陽香を裏切る必要はあったのか。陽香とならガクラータを退けられたのではないか。
 人々は女王を怪しんでいる。これで国が乱れぬ訳はない。
 辛うじて青年と呼べる年齢の男は、つまらなさそうに雑踏を抜ける。宮中においてはそれなりの官職についている男であったが、車を使わないのは人々を観察するためである。彼が自ら進んでの行為ならたいしたものだろうが、彼の場合父親から強要されてのことだった。実際王宮にいても分からないことはあると彼も認めているから従っているが。
 自分たちの野望の実現はそう遠い日のことではないだろうと男は思う。朝楚は変化と遂げつつある。流れが塞き止められ、淀みすぎたがゆえに、国は新たな流れを欲している。どこの国にもある自浄作用というものだ。それが滅びになるか変革になるかは自分たちの力にかかっている。
 不意に、しばらく前に自分が捕らえた少女の顔を思い出した。男は自分の思考に、にやりと笑む。
 儚さと激情。精神のありようが不均衡な高貴な少女。
 あの少女に接触したい。何の力も持っていなそうに見えるが、経験で分かる。ああいう女は嵐と共に、なにかしら変化を起こすものだ。運んでくるのが何かは保証出来かねるけれども。
 必要なのは、純然たる力。まだ方向性の定まらぬ嵐でいい。それを決めるのは自分たちなのだから。
 都が赤に染まり出した。
 毒々しいまでの鮮やかさに広絽は満たされる。
 男は幾分急ぎ出す。
 密会は夜に行うものだと相場が決まっているからだ。



 漠然とした不安が広がり始めている広絽を一望する高みに、王宮・絮台(じょだい)はあった。緋楽公主が慟哭し、春陽公主が運命の刻を迎えた同時刻、赫夜公主はその絮台の奥深くにいた。
 信じられぬほど丁重に軟禁されて一カ月半は経つ。その間政治に携わる者の訪れはない。
 朝楚は夕闇の頃。
 いつも眺めている夕陽が、今日に限って公主の胸を騒がせた。
「春陽……?」
 思わず口を突いたのは、異母妹の名。
 異母姉ではなく、母でもなく。
 何かしら……これは。
 胸を締め付ける、この動悸は何。
 不吉な―――厭な予感
 何故春陽の顔が浮かんだの?
 恐怖だとか危険だとかではないのだけれど。ただ、不快で厭としか説明出来ない。
 赫夜は父帝の力を受け継いだのか、稀にその手の予感を受け取ることがあった。しかし彼女は炯帝がそのような力を有していたことを知らずにいた。予感は予感に過ぎず、具体的に何があったかまでは分からない。
 彼女はゆっくりと牢獄の美しい部屋から外を眺めた。
 世界の全てが、赤に染め抜かれている。
 空があまりに赤いから、妙なことを考えてしまうのかもしれない。
 赫夜はあまり夕陽が好きではなかった。
 幼い頃に母親にそれを言うと、何とも言えない表情で『貴女が?…変ね』と苦笑されてしまった。
 何故なら『赫夜』という名前は夕闇に由来するから。
    赤い夜
    赫々の閃光――“赫夜”。
 だがしかし成長した今ですら、そんな己の名を禍々しく感じるのだ。逢魔が刻という言葉を連想してしまうからかもしれない。
 溜め息をついて窓辺から離れた赫夜を、控えていた侍女たちは感嘆の思いで眺める。動作の一つ一つが嫋かで、まして先程の憂いの含んだ眼差しは儚く美しい。その高貴さは今や敗国とはいえど、さすが陽香の公主と言うべきか。
 あまりの後悔と悲しみに縁取られたことによる美しさである。
 (あのとき、自分が緋楽姉さまの言うとおり早く紀丹宮を脱出していれば、こんなことにはならなかった。)
 姉の居場所と共に、反乱勢力が存在することが敵国に明らかになってしまったのは、間違いなく赫夜の落ち度であった。
 それだけではない。―――この胸を抉るあの哀しみも起こりはしなかっただろう。
 そこまで考え、赫夜はまたしても自身の思惟の意味に疑問を感じた。この胸を抉るあの哀しみ………それは何であったか。
 しかしその疑問も、すぐに慚愧の念に飲み込まれる。己が至らなかった為に、今のこの状況がある。
(わたくしは結局、平時でも乱時でも役に立たない存在なのだわ)
 否。役に立たないどころか、存在するだけで良くないことを呼び込んでしまう。この世に生を受けた瞬間、すでに一人の女性を不幸にしたわたくしなのだから。
「お母様……」



*     *     *



 今を溯って二カ月前。時期でいうと、春陽公主がダン伯爵別邸から王太子の居城・シュナウト宮殿に移り住んで少しの頃。
 一行は則領を櫂領に向かっていた。前回の河顕山での襲撃で、ほとんどの馬を失ったので、残った馬は荷物を積むだけにして、赫夜以外は徒歩の旅だ。
「雄莱の故郷?」
 赫夜は聞き返した。
 今夜は久しぶりに野宿ではなく、江洪という村に宿をとることは聞いていた。しかしそれが雄莱の故郷だとは知らなかったのだ。
 雄莱にしても誰かが言っていると思っていたらしい。
「ええ。だからこそ、この辺りの地理に自信があるから勧めたのです」
 本来の街道を通らずに櫂領に入る方法を、護衛の兵たちは何度も話し合っていた。そんなとき、雄莱が江洪の村の寄ることを提案したのだ。
 則領は陽香で唯一砂漠のある領地である。砂漠といっても、四成大陸西部諸国に見られるような砂丘が広がる砂砂漠ではなく、乾いた固い大地と岩が連なる岩石砂漠の方だ。
 雄莱が目をつけたのはこの点だった。櫂と則の間にはもちろん街道がある。他領では、街道以外の道を利用する旅人も珍しくないが、則にはそれがない。則から櫂に行く場合、犯罪者でない限り例外なく人々は街道を使う。特に厳しい規制もないというのに、だ。それは街道以外の道を行こうとすると、砂漠を避けて通ることが出来ないからだ。つまり逆にいえばそれだけ人目に付かず移動できるということだ。もちろん、一度目に付けば、誤魔化すことなど出来なくなるのは承知の上だ。
 問題は追っ手だが、今のところ姿を見せない。
「雄莱の故郷ね。どんなところ?」
「貧しいです」
 隣り合う櫂領は豊かだというのに、則領はあの砂漠のせいでどうしようもなく貧しい。即答した雄莱に赫夜は首を傾げて
「貧しいから村を出て軍に入ったの」
「はい……ですが赫夜様、俺たちは国の正規兵ではないんですよ」
 驚いて、赫夜は馬上から雄莱を見た。当然のように正規兵だと思い込んでいたのだ。そういえば、彼らがどのような経緯で自分を守ることになったのかを赫夜は全く知らない。恥ずかしながら公主である赫夜にとっては、自分を守る者がいるのは当然のことであったので、気にしたこともなかったのである。
「春陽公主の私兵なのです、俺たちは」
「それで……」
 春陽は落都の際、彼らのことを信頼出来る者と言った。国の兵なら、春陽が彼らのことを信頼出来るほど良く知るはずもないのだ。
 それにしても私兵などを春陽が有していたなんて。我が妹ながら抜け目のない。赫夜は春陽を頼もしく思う一方、その先見の明をどこか空恐ろしく思うのも事実だった。
 春陽は公主で唯一公主府(府第)を開いていた。これは彼女の名前同様に、陽香の歴史上例のないことだった。公主が政治に直接係わることは通常ありえない。しかし母親が皇后であるがために、公的な役割がかなりあったのだ。しかも春陽が常に炯帝の側にいることを知らない者はなく、それ故彼女におもねるものも多い。自然と彼女の発言力は大きくなっていたのだ。
 彼女は自分が迂闊な行動を起こせないことを自覚していたし、何者かに利用される危険も承知していた。そのうえ彼女は一部の者たちから命の危険さえ感じていた。それで府第を開いて官署を置き、人材を集めて私官に任じ、政治絡みの争いについて相談に乗ってもらったり、己の命を狙う者から守らせていたのだ。
 皇太子の皇太子府に対抗した訳ではなく、あくまで自衛のためなのだが、邪推されたりもしていた。
 思えば、妹が少女らしくないのも仕方のないことなのかもしれない。赫夜がそう言うと、雄莱は複雑そうに言った。
「落都の前日、春陽公主がお呼びになったとき、俺はてっきり春陽公主自身の脱出の算段だと思っていたのです。しかし命ぜられたのは、赫夜さまと緋楽公主のことだけ。あのときはまだ、ガクラータからの要求が来ていなかったはずなのに、御自分の脱出のことは後回しにすると。勿論、監国を任じられた春陽公主は、宮殿の留守を皇太子殿下から預かっていたのですから、敗北した後の処理を残して脱出する訳にはいかなかったこともあるのですが、それは宰相たちにでも出来たでしょうに」
 陽香は宰相の多い国だ。正宰相が三人、臨時の宰相は大抵四、五人いる。春陽が絶対必要な場面ではなかった。
「考えられるのは自決だけれど、あの子が無意味な自決をしようと考えていたなんて思えないわ」
 春陽はわたくしやお母様とは違うのだから。
 雄莱も無骨に頷く。
 勿論春陽は自決するつもりだったのではなく、全ての用事が済めば脱出する筈だった。赫夜は知らないが、春陽が宮殿に残った理由は、吉孔明をどうしても逃がさなくてはならなかったからだ。皇太子のいない今、皇帝位を受け継ぐのは彼しかいない。
 だが、それさえも彼女以外にもできた仕事だ。実際、手筈を整えている途中でガクラータに投降せざるを得なくなって、春陽は後を宰相たちに託している。そして宰相たちは見事それを果たした。それなのに、当初彼女がわざわざ自ら働いたのは、宰相たちを信頼していなかったからではなく、確実に自分の手でしなければ安心出来なかったからだ。彼が他ならぬ恋人だったから。
 もちろん吉孔明以外に皇帝になるべき皇子がいたのなら、春陽は情に流されず吉孔明を切り捨て、その皇子を助けたであろう。それが出来る少女だ。だがもし脱出させるのが吉孔明でないのなら、あれほど熱心に準備をしただろうか。もし吉孔明が他の皇子たちと同じ運命に立たされたのなら、春陽は処刑の場面で毅然と出来ただろうか……否、である。
 赫夜は春陽と吉孔明との関係を知らなかった。口外出来ない彼女たちの恋はあまりにも密やかで、吉孔明の実妹である緋楽以外誰も気づかず、真実を明かされたのも逢瀬の手引きをした侍女ぐらいだ。
 もし赫夜がそれを知っていたのなら、あるいは妹をもっと違う目で見ることが出来たのかもしれない。春陽が赫夜の弱さを知りつつ、しかし完全には理解できなかったのと同じように、赫夜は春陽の勁さを過信していた。
 どちらも心に孤独を抱え込んでいたが、その種類は全く違ったのだ。ふたりの性格は姉妹といえど大きな隔たりがあった。
「あの娘は、強いもの……」
 真の理由を知らなかったからこそ、春陽の行動を単に勇気あるものとしてとらえた赫夜は、辛い気持ちになって俯いた。
 どれほど妹の強さを羨んだだろうか。
「ええ、春陽公主は素晴らしいお方だった」
 偽りのない雄莱の言葉が苦しかった。こんな末端の者にまで尊敬された春陽は何だったのだろう。
 雄莱は赫夜の後ろめたい悩みには気がつかない。だが何か思うところがあるようだとは流石に分かる。
 雄莱には詳しいことは分からなかったが、どうやら赫夜公主は自分の無知を恥じているようなのである。別に赫夜が特別、世間知らずなのではなく、上流階級の娘とはそんなものであろう。公主などその最たるものである。
 しかし河顕山で朝楚兵に襲われた日以来、赫夜はどこか変わったようだった。彼女は己の無知を自覚し、そのまま目を逸らすことを良しとはしなかった。それを好ましく思った雄莱はそんな公主の努力に力を貸したかった。
 それで雄莱は三年ぶりに故郷に帰ったのなら、良い機会なので赫夜に『村』というものを見せようと思っていた。
 江洪に到着したのは夜になったばかりの頃だった。
 村人が夕餉を終えたばかりで、家の外を歩く者は誰もいない。
 随分寂れているのだなというのが、赫夜の印象だった。薄暗くてよく見えないのだけれど、染み付いた寂寥が感じ取られた。
 雄莱の故郷・江洪の村は則領の最も東にあり、豊かな櫂領とは岩砂漠を挟んで三日の距離しかない。それなのに、こうも違うものなのだろうか。
 先ほど、赫夜の質問に対して「貧しい」の一言を返した雄莱の言葉が、少しずつ実感を伴ってきた。
 江洪の村人たちは、三年前村を出て行った雄莱が突然帰ってきたことに驚いた。雄莱は同じく出稼ぎに出た他の若者同様、たまに村に残した母親の元に帰ってきては生活費を持ってくるのだが、連絡もなしにということはなかったのだ。
 帰郷の理由を聞いて、心臓が停止するほど彼らは驚愕した。そして半信半疑で雄莱の背後に立つ一行を見やると、あきらかに貴人と思われる女性が男たちに付き従われ佇んでいたのだ。
 にわかに小さな村がざわめき始めた。
「あなた、いや貴女さまが……?」
 村長とおぼしき白髪の老人がおずおずと聞いて来た。
 赫夜が頷くと、彼らは目を見張る。
 村長の傍らに控えていた小柄な老女がぺたんと尻をついた。それで硬直の解けた村人たちは慌てて膝をつくと、頭を地面にこすりつけて叩頭した。
 無条件で寄せられる畏敬の念を、どう受け止めて良いのか分からずに赫夜は視線で雄莱に助けを求める。察して彼は公主様が困っておいでだから顔を上げるように言った。
 ばらばらと言われるままに顔を上げた村人に、ほっと安堵して赫夜は嘆息した。赫夜自身は気づいてはいないが、彼女が他者に叩頭礼をされて戸惑ったのは実は初めてのことだった。公主である彼女は捧げられる敬意を当然のものとして受け入れていたので。
 そろりと辺りを見回してみると、ほんの小さな子供達も家から飛び出して遠巻きにこちらを眺めている。彼らは自分たちの世界を掛け離れた風の公主に、憧れめいた眼差しを向けてくる。公主としての義務を唐突に意識して、赫夜がぎこちなく微笑むと子供たちは顔を真っ赤にして母親に隠れた。
 心がやっと和んで、赫夜は微笑ましく彼らを見た。そして気づく。紀丹宮に出入りしていた同じ年頃の子供たちのような、無垢な天真爛漫さが彼らにはない。純真で優しそうな子供たちなのに。
 しばらく考えて、ああそうかと納得する。彼らは現実に生きているのだ。彼らは自分が生きてゆくために働くことを知っている。赫夜は子供のころ、さんざん分別があるだとか、大人びているだとか言われたものだったが、この子たちに比べれば随分と子供であったことだろう。
 村長宅に招かれて、貧しいながら精一杯の膳を整えてくれたとき、赫夜の胸に後から後から罪悪感が溢れ出した。
 目の前にあるのは彼らの精一杯の膳。頭で分かっているというのに、公主の生活に慣れた赫夜にその食事は、とても食べられたものではなかったのだ。その事実に、赫夜は己を激しく嫌悪した。
 痩せた少女。あかぎればかりの手。赫夜を前にして粗末な衣を恥ずかしそうにした女。
 赫夜とて、そういう生活を送るものが大多数であることを知らなかった訳ではない。底辺の生活がどんなものであるのか。
 しかし実際目にする衝撃は知識を越えた。
 血税という言葉がある。それが字の通りの重みを持つことを、彼女は初めて肌で理解したのだ。
 彼女が好んだ香。美しい衣装。事あるごとに運ばせた高価な茶。宝石、楽、自分のために咲き献された牡丹、異国の凝った布。……食べる気がしないといって下げさせた食事。
 勿論、彼女一人が我慢をしたからといって陽香中の子供が救えるはずもないが、だからといって彼女が税を浪費してよいことにはならない。けっして。何故ならそれで腹が空かせずにすんだはずの子供もいたのだから。
 わたくしはただ、公主というだけ。国に何か貢献したわけでもなく、ただ皇帝の血を引くというだけ。皇子たちのように、国を支えてすらいない。
 賢君と名高い炯帝を父に持つことが誇りだった。しかしそれも今となっては空しい。それは赫夜自身への評価ではない。虎の威を借る狐と同じだ。わたくしは何故今まで、人に敬われるのを疑問に思わずにいられたのだろうか。
「雄莱。わたくしは陽香を何の問題もない倖せの国だとでも思っていたのかもしれない。貧しさを知ろうともしなかった。苛酷な生を強いられた人々を踏み付けることで、わたくしたちの生活が成り立っていることに気がつきたくなかったから」  話を振られた雄莱は黙って公主を見守る。粥をもつ彼女の手は震えていて。
「わたくしたちは民から税を絞り取っているくせに、人々の生活を知ることもない。わたくしたち……いいえ、わたくしだけが無知だったのかもしれない。緋楽姉さまや春陽は知っていたのかもしれない」
 自責の念は絶えない。
 何も分かっていなかっていなかったくせに、自分が陽香の再建に役立てると思い込んでいた。母親が死んで無様なまでに取り乱し、己のせいで峨良という犠牲が出るまでそんな自分を自覚さえしていなかったのだ。自覚したときでさえまだ、己の力を過信していた。本当に大変な人々の前で、自分が無力だとやっと気づく。
 わたくしは自分を守ってくれる人々の犠牲を出してまで櫂領に行き、それから何を成そうとしていたのだろう。何が出来ると思っていたのだろう。足手まといだということに気づかずにいた、その愚かさ!
「昔の赫夜さまは存じません。けれど今、赫夜さまはこうして下々のことを気にかけて下さっている。そして知らないままでいることを良しとはせず、これから学ぼうとしていらっしゃる。それでよろしいではありませんか」
「……必ず。必ず、わたくしは」
 雄莱の言葉は、本当は甘すぎるのであろう。
 唇を噛んで激情を押さえ込んだ赫夜は、しかし反発せず雄莱の慰めを受け入れた。彼にあの時のような侮りはなく、言葉に真摯さが籠もっていたからだ。
 雄莱は赫夜が賢妃の死に取り乱していた一カ月と半ほどは、彼女に対して憐憫以外の何の感情も抱いていなかった。ただ近寄り難い、美しい貴人としか。しかし自分の不覚を自覚して、変わろうとして足掻く赫夜はその倍は生気に満ちていて、雄莱に忠誠を捧げさせるほどに彼女の将来が楽しみになったのだ。公主にそんなことを思うのは不遜であろうが。
 公主の心の成長が、自分の言動に端を発しているなどと、雄莱はまさか思いもよらないだろう。彼の無意識の侮りが、赫夜に矜持を思い出させたのだ。
 護られるだけしか出来ないように育った覚えはない。春陽のように厳しく男の教育を受けた訳ではないが、皇族としての義務を果たすことや誇りを自分自身で護る術を赫夜は教えられていた。そのときは本当の意味で理解してはいなかったが、今なら分かる。
 赫夜は、無言で粥を喉に押しこんだ。
「そろそろ、よろしいんで?」
 食べ終わった膳が下げられた後、村長が奥から姿を現した。
 こんな田舎では情報も伝わりにくく、戦火もこの村まで及ばなかったゆえに、村人たちは陽香が事実上滅んだも同然になったことが実感しにくいようだった。それで詳しく知っているはずの赫夜に、食後に説明をしてくれるよう求めていたのだ。
 実感しにくいとはいっても、このまま無関係でいられるはずがないからだ。都ではガクラータ人によって新たな政治体制が整い出す頃であるし、商人の話では陽香が誇っていた良質な銀を産出する豊富な銀鉱はとうに押さえられたという。貿易も滞り、税は高くなるだろう。斉領では陽香総督・ソヴァンス公によるガクラータの本拠地がおかれ、町では略奪が公然と行われている。
「冬が来ればどンれほど餓死者が出るんじゃろう……?」
 村長は話を聞き終えると、そう呟きを漏らした。それを耳にした赫夜は胸を突かれる。彼の不安はもっともだ。もともと貧しい江洪。重い税を課されたのならひとたまりもない。
 まだ季節は夏だ。しかしすぐに秋の実りを迎えて冬は来るのだ。戦に勝ち、平和を迎えるには何年かかるか分からない。勝てるという保証も無い。もし今年、毎年少ない作物の収穫量がさらに平年を下回ったら………考えたくもない。勿論これも見据えなければならぬ現実である。



*     *     *



 夢を、見る。
 ゆるゆると、微睡みの中で過去が繰り返される。
 蘇るのは、かつて劣等感に苦しむ幼い己。
 夜ごとの母の囁く、子守り唄は冷たく乾いて。
 自分が望まれて生まれたのではないと何処かで気づいていた。
 美しかった母
 儚げであった母
 父のことに対してだけ、強くあれた母
 けれど赫夜は思う――どうして皇帝などを愛してしまったの
 ―――皇帝を本当の意味で父親と思ったことはなかった。思えるはずがなかった。
 そもそも炯帝陽龍が彼女の母・壺帛桂姫を後宮に『賢妃』として召し上げたのは、己の即位を可能にした臣下である桂姫の父親への褒美であると同時に、味方と血縁を持って反対勢力から己の身を守るための手段でしかなかった。
 事実、彼の後宮は上位の妃たちのほとんどが、栄皇太后への反逆の功労者に縁のある姫ばかりだった。武妃である泰桃珠も然り。
 例外は皇后である青春耶だけ
 皇帝が政略結婚でしかない壺帛賢妃の閨に通ったのも、政治的な思惑故だった。現に彼は賢妃が懐妊すると、義務は果たしたとばかりにそれ以後、賢妃や生まれた公主に何の関心も向けることはなかった。
 赫夜にとって陽龍とは君臨者である皇帝でしかなかった。人の血を持つ絶対者であればこそ、慕ってよい存在ではなかった。
 だが、同じ公主であるはずの異母姉妹は自分とは違った。姉の緋楽公主は皇帝の幼馴染である武妃を母に持ち、妹の春陽公主は陽龍が唯一熱烈に皇后へと望んだ青春耶の娘だ。
 父に愛しまれている異母姉、最高の教育を与えられる異母妹。
 ――――父と個人的に話したこともない自分。
 赫夜が異母姉妹たちと直接会話したのは、彼女が十歳になり、初めて出席を許された皇族の集まりのことだった。
 自分とたった三つしか違わないというのに、緋楽は父の話相手たり得ており、春陽は自分よりずっと早くに出席を許され、すでにこの場に居場所を持っている。
 幼い赫夜に同じ公主である彼女たちをとりまく華やかさ、誉れ高さがどんなに切なく妬ましかったか。
 赫夜は傷ついた。肩身の狭そうな母親があまりに可哀想で。
 もはや皇帝に娘として愛してほしいと思うことも出来なかったが、せめて母親のことを気に止めていて欲しかった。
 赫夜はその場を逃げ出した。彼女がいないことに誰も気がつかない。いっそ母親以外の全てを憎んでしまいたかったが、それが出来なかったのは、ひとりで泣いていた赫夜の肩を背後から叩き、声をかけてくれた人間がいたからだ。
 それ故、それ以後彼女は劣等感に苦しめられながらも耐えてきた。
 振り返った赫夜の目に移ったのは二人の少女だった。年上の方の少女が彼女に優しく尋ねた。
「何故、泣いてらっしゃるの?」
 幼い赫夜は呆然と、微笑みかけてくれる少女を見やった。
 赫夜に穏やかな愛情を教えたのは母親ではなく、勿論父親でもなく、羨み嫉妬してきた異母姉妹たちであったのである。



*     *     *



 粗末な村長の家で目覚めた赫夜は、昨夜見た夢に苦笑した。よくこんな昔のことを覚えていたものだ。
 優しく、辛い過去。
 幸薄かった母のことを思うとまた涙ぐみそうだったが、寸前で堪えた。母のことでもう泣かないと決めたのだ。
 前に進むために。
 赫夜の劣等感はとうとう八年たった今でも拭い去ることが出来ずにいるけれど、緋楽たちと出会えて良かったとは無条件で思える。
 思慮深さと豪胆さを合わせ持つ緋楽は何より赫夜の癒しになったし、普段は少女らしくなく近寄り難い雰囲気を纏う春陽が、自分に心を許して微笑んでくれる様はいとおしかった。
 赫夜は牀から降りた。
 ここ最近野宿が多かったせいでよく眠れた。少し前では粗末な寝台では熟睡出来なかったことが嘘みたいだ。しみじみ自分がどれほど贅沢な暮らしをしていたかが分かる。
 身体に疲労も残っていない。どうやら長く旅をしていてようやく身体が順応してきたようだ。春陽と一緒に武術を習っていたとはいっても、所詮、宮暮らしの悲しさで呆れるほど体力がなかったのだ。
 良い傾向だと赫夜は思う。
 自分はあまりにも脆弱すぎたけれど、変わってゆける。変わろうという努力することが出来る。
(雄莱のお陰かしら)
 別に彼は赫夜に強くなれなど一度も言ったことはない。逆に始めなど彼は赫夜を可哀想な公主として扱っていた。しかしその雄莱の忠誠心は赫夜の自覚を促した。だからこそ赫夜は彼の無意識の侮りの言葉に激昂した。口にしたのが外ならぬ彼だったからこそ、至らぬ自分が許せなくて。
「さあ今日一日頑張りましょうか」
 赫夜は支度を始めた。
 外はよい天気だ。
 格子の外から漏れる朝日は鋭い。
(ああそうだわ)
 赫夜は僅かに微笑んだ。
 一人で朝早く起きれるようになった……こう並べてみると情けないものがあるが。
 朝餉の後、皆の前に姿を現した赫夜公主を雄莱は眩しく見返す。
 誰もが公主の変化に気づく。
 始めは自分のことに精一杯で目下の者には眼中にないようだった彼女が、少しずつ彼らを仲間と認め、頼りにしてくれるようになった。
 美しくなる赫夜。
 そうしていつかこの公主は大輪の花を咲かせるようになるのだろう。



 村人たちに見送られて江洪の村を出発した彼女たちは、櫂領までの岩砂漠の道程を進み出した。
 乾いた大地は足を踏みしめる度、砂ぼこりが舞う。喉や目は痛み、なかなか前方は見えない。あるいは岩の上をゆかねばならぬときは何より足を痛めてしまう。この岩砂漠の道は旅には向かないのだ。
 しかし吉孔明皇子と緋楽公主のいる櫂領はあと少し。一行の足取りは自然軽くなる。
 赫夜も供の者が苦労している中、荷物を除いてはただ一人馬上にいることを申し訳無く思ったりするのだが、自分が歩くことを選んだらよけい足手まといなのは分かり切っている。
 二刻と半程歩いただろうか。
 後方から馬の蹄の音と共に二人の若い男の声がした。
「おおい!」
「待ってくれぇ!」
 何事か。一応油断なく身構えた一同の中で、雄莱だけがぽかんと闖入者を目を凝らして見入る。
 しばらくして彼は「やっぱりあいつらだ」と呟いた。
 二人の若者のうち特に年若い一人が駆ける馬上から勢いよく叫んだ。
「どうか俺たちも仲間に加えて下さいっ!」
 盛大な砂ぼこりを撒き散らして二頭は赫夜たちの側で停止した。 
「あら」
 赫夜もまたそう呟く。
 叫んだ青年を赫夜は知っていた。江洪村長の孫だ。彼は遜角という名で、まだ赫夜と同じく一八歳。ということは遜角と馬を並べていた青年もまた江洪の者だろう。
 雄莱が慌てて駆け寄る。
「お前、どうして」
 遜角ははにかんで答えた。
「本当はずっとそうしたかったんだ。国のために何かしたかった。けど村のことが心配で言い出せなくて。でも父ちゃんがそんな俺に気づいて、村のことは心配せずに追いかけろって」
 そんな遜角に、何故か連れの青年が複雑そうな表情を浮かべていたが、雄莱は気づかなかった。
「そうか」
 同郷の者が自分と同じ考えをもっていたことが嬉しくて、雄莱は無骨だけれど柔らかく笑い、髪を結わえている遜角の頭をくしゃくしゃにした。そして心配そうに振り返る。
 雄莱の眼差しに赫夜も微笑んだ。
「いらっしゃい――いいえ、ぜひ来て下さい」
 ここにも真っすぐな若者が。
 赫夜には雄莱たちの村の者や、供である春陽の私兵たちの素直さが新鮮だった。紀丹宮にいた頃は洗練されたものを好んだ赫夜だったが、今は彼らの衒いの無さが心地よい。
 正規軍ではないせいか、堅苦しい礼を取られないのも今の赫夜には救いだった。まだ彼女は自分がそうされるに値する人間だとは思えなかったから。
 彼らとならば、やってゆけるかもしれない。
 わたくしをただ公主だからといって敬う者ではない。正しい目を持ち、健康な精神を持っている。そして彼らは声高にわたくしを責めるのではなく、態度によってわたくしの知らぬ世界を見せてくれるのだ。
 変わろう。
 赫夜は改めて思う。
 公主としてもそうだが、それ以前に人間として。
 ちらりと雄莱に目をやる。
 わたくしの時間は、彼のよって始まったのだ。










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