赫夜の章 [2]





 営を張った後、皆が寝静まった夜中。ひとり抜け出した赫夜は、物思いに耽っていた。
 夜空を見上げれば、満月。
 生まれてこのかた、何度も見たはずのその姿を、しかし赫夜は飽きることなく眺め続けている。
 煌々と月は、地上をあまねく照らす。
 星すら霞み、群雲もその光を遮ることはない。
 闇であるはずの夜は月光の皓さとあいまって、蒼々とした明るさを湛えていた。
 月がこれほど大きいのだとは
 月がこれほど明るいのだとは
 知らなかった。
(地平線が、見える)
 この岩だらけの大地に月の恵みが降る。その下にわたくしが居る。
 静かな感動が胸の奥で沸き起こった。
 世界は、紀丹宮の中のみに終始するものではないという当然のことを、しかし赫夜は知らなかったのだ
 土を素足で踏み締めたことのない人間が、果たして本当に生きていると言えるのか。
「寝付けませんか」
 そのとき、どうしても情緒を求められない無骨さで問いかけてくる者がいた。
「雄莱」
 小さく呟いて、赫夜は振り返った。問いかけて来たのが雄莱であったことに満足めいた笑みが自然に起こる。彼になら自分の考えを分かってもらえるやもしれぬといった信頼が、すでに赫夜にはあった。
「月が晴れていますね」
 そう言った雄莱の微笑みは、普段はいやに老成している彼の、本来の年齢に相応した若々しさを垣間見せた。意外な気持ちで赫夜は雄莱を見つめ返す。
「眠れないというより、眠りそびれたというか……。この月を見ていると眠りに着くのが惜しくなったの」
 そして流石にもうそろそろ眠らねばならないのだけれど、と付け足す。だが雄莱が別に注意しに来たのではないことに気づいて、彼に隣に座るよう勧めた。雄莱が畏まって座すのを横目で見ながら、彼に言うのでもなく独り語ちた。
「わたくしは、陽香が敗北する日など、想像したことがなかったの」
 陽香とガクラータの戦乱は、彼女にとってどこか遠い話だった。無論、まったく何も知らなかったわけではない。今から思い返せば姫君のままごとめいたものであったにしろ、赫夜なりに国を案じ、戦況などの情報を積極的に仕入れていたりしたのだ。
 だが、やはり現実にあの大国が滅びるなど……想像できることではなかった。
「………」
 雄莱は黙って赫夜の独白を聞いている。
「でも、わたくしが敗戦をあらかじめ予見できていたところで、何かが変わっていたとも思わない。当たり前のことだけれど、わたくしが――そう、皇子たちや春陽のように国の役に立つことが出来ていたとしても、このような大きなうねりを変えることなど出来なかったでしょう」
 逃げではない。それは事実だ。
 そして、これからも。
 この小娘でしかない身で、この大きな流れをひっくり返すために、何が出来るのだろうか。
「これがもし天命であるのならば、わたくしは何処に導かれるのでしょう。それが苛酷な結末なれば抗うことは出来るのかしら」
 運命という言葉を一笑に付されたならどうしようかと、赫夜は思った。そんなこと自分で道を切り開けない者の言い訳だと。
 案の定、笑いはしなかったものの雄莱は困った顔をした。嘘のつけない男だ。彼は運命というものを信じてはいまい。彼は困った顔のまま、けれど赫夜のために、言葉を選びながら自分の真実を語る。
「不本意な運命を用意されても、全て回避は出来ずとも、何処かで流されずに済む領域が残されているはずです」
 流されずに済む領域。それは赫夜にとっては陽香再建だろうか。
 雄莱の真剣な顔。彼の精悍な眼差しは自分に出来る領域を常に見つめ続けているのであろうか。それをやり遂げようとする心、それ故の強さか。 雄莱が背中を押してくれるという事実に、ひどく安心出来た。
 やがて沈黙が降りて、赫夜は瞼を閉じる。
 静かだった。月光だけが降り注いでいた。





 けして平民のものではあり得ない、踵までの艶髪がうねる。儚く国を憂えることしか出来ぬと思われた眼差しが獲物を射た。
 飢えたように、という表現は彼女には当てはまらない。さながら剣舞の如く、刀を構える様は鮮やかに、乾いた土を次の瞬間には蹴る。
 ―――屠る。
 唖然とした一同に向かい、貴人は涼やかに笑みを浮かべる。
「後方は任せます――でも、けっして命を掛けないで」
 無礼にも味方の誰かがぴゅうと口笛を鳴らした。それに対して眉を顰めるどころか「ありがとう」と気安く言った公主に兵たちはにやりと笑い、前から決めたとおりにまず赫夜と、一番の使い手の雄莱を逃がした。
 残り少ない馬は追っ手に射ぬかれたか、恐慌を起こしたかなので、諦めて走って逃げるしか無い。馬たちの強すぎる恐怖に不審を覚えながらも、もう馬に執着している暇はない。
 赫夜は走りだした。
 自分より少し先を走る雄莱の後を赫夜は追いかける。その背中が頼もしいと知ったのは、甘えた自分を知ったころからだ。
「雄莱!」
 その背中に走りながら声を掛ける。
「何ですか!」
 同じく走りながら返事をする雄莱。赫夜は呼吸の合間に声を見出しながら言った。
「初めて人を殺めたわっ!」
 本当は恐ろしくて足が竦みそうだったけれど、それでも兵たちの前で、毅然とした自分を演じきることが出来た。
 雄莱は思わず立ち止まって振り返った。
 激しい切望―――強靭な精神を得たい
「わたくしは生き抜いてみせるわ。もし捕らえられても、何が起ころうとも」
 雄莱は目を見張った。
 この激変の理由は?
 何がこの方を変えた?
 無骨なだけで鈍感な己では、察するのは不可能だけれど。
(公主……)
 胸の裡だけでそう想い、口にするときは名前のほうを呼ぶ。
「赫夜さま」
 名前で呼ぶ度に主従の距離は狭まった。暖かなものが雄莱の身に流れる。単なる忠誠心を超えて。
 赫夜がただ護られるだけの存在ではないことが、何故かこんなにも嬉しい。
 侮りを寄せ付けない毅然とした姿。
 迷いは既になく。
(お勁よくなられた)
 どこまでも女性でありながら男よりも勇ましい、気高い存在に赫夜はなろうとしている。
 この美しい公主はどんなことでもやってのけそうに思えた。
 いずれ。




 今を遡ること半刻前。
 雄莱が朝楚兵の斥候を発見したのだ。前回河顕山で襲われたとき上手く撒いたのだが、とうとう追いつかれたようだ。
 先程赫夜が斬り伏せたのも斥候の一人である。斥候は、一人残らず始末した。これで本部隊が斥候が戻って来ないことに不審を感じるまで時間稼ぎができる。襲撃を仕掛けて来るのは遅くなるだろう。そのうちに、雄莱は赫夜をつれて、出来るだけ遠くに逃げるのだ。その場に残った護衛の兵たちは囮である。
 正面切って戦いたい所だがこちらは寡勢、おまけに最近まで音沙汰がなかったことから相手は援軍を迎えて数を増やしている可能性が高い。
 むろん、そのことが全く予想できていなかった訳ではない。彼らは江洪の村であらかじめこの岩砂漠で襲撃された場合を想定して作戦を立てていた。
 囮を使うということに赫夜は始め難色を示した。囮になろうと、赫夜と共に逃げようと、兵たちの危険度はそう変わらないのだと諭されても割り切れないものがあった。
 それがありありと表情に表れていたのだろう。兵の一人が問いかけた。
「赫夜公主。何故に御身の護衛がこれほどまでに少ないのかご存じか」
「……いえ。知りません」
 それは赫夜も気になっていたことだった。何故春陽はもっと兵を用意しなかったのだろう。だが自分では何もしなかった赫夜がそれをあからさまに問うのは、図々しいと思って今まで確かめることが出来なかったのだ。
「正直に申し上げると、あまりに危険なのでほとんどの者が従わなかったのです。陽香王朝の再建を信じる者は少ない。滅んだ国の皇族のために命を掛けることを望んだのは私たちだけでした」
 黙り込んだ赫夜にその兵は淡々と続ける。
「私が再建を信じたのは、信じようとしたのは、春陽公主が諦めてはいらっしゃらなかったからです」
「春陽……あの子が」
 赫夜の眼裏に、凛と立つ異母妹の姿が浮かびあがる。
「私は春陽公主を戦いの旗頭に、戦いに身を投じることを望んでいました。しかし実際には、あの方は敵国に赴かれ、私 に与えられた任務は貴女さまの護衛。わたしは正直落胆しました。けれど私は故郷に帰らず、任務につきました。なぜなら、それが公主の望みだったからです。」
「………」
 彼の言葉は、今まで甘い言葉しか知らずに育ってきた赫夜の胸を抉る。だが赫夜は黙って彼の言いたいことを聞いていた。
「春陽公主は貴女さまや吉孔明殿下、緋楽公主が必ずや国を再建してくださると信じ、それゆえ殿下たちを護ろうとなさったのです。肉親の情だけではありません。任せられると信じていたから国を発ったのです。それに応える義務が貴女さまにはあります」
 それを聞いて赫夜はしばらく無言になり――囮の件を本当の意味で承服した。
 最近人に諭されてばかりいる。この兵には赫夜があまりに未熟に過ぎて見えるのだろう。皇族にこの様な口をきくのは勇気がいるだろうに。
「あなたは何故それほどに春陽を慕うの」
 思わず問うた赫夜に兵は頭を振った。そして言う。慕っていたのではなく、畏れていたのだと。理由も分からず、己の半分も生きていない少女がただ、身分ではなく人間として、尋常でなく高位に思えて仕方なかったのだと。
 赫夜には打ち解けていた春陽なので、彼女には異母妹がそれほどの人間とは思えなかったが、時々凍てついた瞳を妹はしていた。
 暗にその兵は、赫夜が春陽より劣っていると言っている。そのとおりだ。でも自分は春陽のようにはなれない。
 だから自分なりに最善と思えることをやって行こうと思う。そして今はこの場に留まらずに逃げることが最善なのだ。囮を嫌がるのは自分だけが安全でいることの罪悪感から。他にいい案があるわけではない。それでは無意味なのだ。


 赫夜と雄莱の背中を見送った後、朝楚兵を迎え撃つべくその場に残った護衛の兵と江洪の若者は、大きく劣っている頭数がなるべく不利にならぬように、大岩で囲まれた狭い道で待機することにした。大人数では戦えない場所、つまり複数人に囲まれないためである。凡策ではあるが、戦いにおいて外してはならない定石であった。
 江洪村長の孫であり最年少の遜角も、じっと朝楚兵を待っていた。簡単な作戦が一応立てられている。
 彼らの一番の仕事は、見当違いな方向に朝楚兵を誘導することである。朝楚兵たちは護衛の兵たちが行かせないようにする方向に赫夜公主が逃げたと思って前進するだろう。そして、誘導がすめば兵たちは一人二人と「敗走」を装い、戦場を離脱してゆく。あとは待ち合わせ場所で公主と合流する。
 彼ら朝楚兵の狙いはあくまで赫夜一人であって、護衛兵の全滅ではない。だからこそ逃げる者をわざわざ追わないだろうという判断があるからこそ成り立つ作戦だった。まともに戦っていれば間違いなくこちらは全滅する。おまけにこんなところで大量に護衛を失っては、今回はなんとかしのいだところで、結局そうそうに赫夜公主は捕まることになるだろう。
「それにしても、姫さんってもんはもっと取り澄ましたもんだと思っていたがなぁ」
 朝楚兵を待っている間、新参者の遜角に、兵のひとりが話しかける。
 その口調には、公主への紛れもない好意があふれていた。
 遠い存在であった公主が、一介の兵に過ぎぬ自分たちへ親しく声を交わしてくれる。それだけで、彼が公主に対して義務以上のものを覚えても無理なからぬこと。
「そうですね」
 遜角が返事を返そうとしたまさにそのとき、その声に被さって、別の男が彼らに向かって囁いた。
「来たぞ」
 砂煙が微かに遠方で立ち上がっていた。いくら偲び寄ったとしても、馬を使っている以上、こればかりは朝楚兵も隠せない。やってきたのだ。
 はっとする遜角。と共に尋常でない汗が流れ落ちる。
 男はそれを見て取ったが、初めての戦いに緊張しているのだと納得し、それと同時に弩(ど)をうつ。
 敵はまだ遠い。馬で駆けて来るのを弓よりも重量はあるものの射程距離が長く、命中率も高い弩でまずは狙い撃ちをするのだ。
 遜角の胸が不自然に鼓動した。



(そろそろ朝楚兵どもが追いついたころだ)
 逓雄莱は公主と岩陰で小休憩を取りながら考えていた。人間はいつまでも疾走し続けることが出来ない動物だ。常に余力を残しながら逃げないと、いざというときにろくな抵抗も出来ない。しかも彼が連れているのは、ついこの間まで蝶よ花よと育てられた公主。彼女には驚いたことに剣の心得があるものの、体力に関しては、子供以下だ。
 雄莱はちらりと公主の方を見た。
 長い踵までの艶髪を手に取りしげしげと見つめていた赫夜は、唐突に雄莱へ命じた。
「雄莱。わたくしの髪を小刀で断って」
「っ!」
 硬直した雄莱に、赫夜は「早くなさい」とせかしたが雄莱は動かない。彼には公主の髪を切るなど出来るはずがなかった。炯帝の娘の髪は特別な意味を持っているからだ。
 己の命令に従わぬ雄莱に苛立ちを覚えたが、重ねて命じる時間はない。赫夜は彼と議論することに早々と見切りをつけた。驚愕のあまり何も言えずにいる雄莱を他所に、赫夜は素早く自ら小刀を髪に当てた。
 流石に手が震えた。踵に髪が届いてからこの方、一度もそれより短い己の髪を見たことが無い。だがこの髪は目立ち過ぎる。今考えてみると落都からあんなにも早く朝楚兵に見つかった理由のひとつに、この長すぎる髪があったに違いない。愚かなことをした。
 雄莱の腕が公主を止めるべく慌てて動き、しかしぎくしゃくと空を掴んだだけに終わった。
 ざくりという音がした。
 雄莱が声にならぬ悲鳴を上げる。皇族を敬い上げ奉ることはしない彼にとってでさえ、公主の髪は神聖な物であった。彼女が炯帝の娘である証し。公主にしか許されない、国への忠誠の証し。
「何て、ことを……」
「髪がなくたってわたくしは国を愛しているわ」
 短く言って、赫夜は立ち上がった。
 十分に休憩は取った。早く逃げなければ
 そうだった、と雄莱はやっと我に返る。
 動きやすい袍を身に纏い、肩にやっと届くくらいに髪を切った赫夜は、ぱっと見には少年兵で通る。すぐには赫夜だとは気づかれないはず。
「さ、いきましょう」
 赫夜は髪を目立たぬ所に捨てて、再び駆け出す。
 それからしばらくしたころだった。逃げて来た後方からではなく、逃げようとしていた前方から、こちらの行く手を阻むかたちで迫ってくる一団が見えた。
「どういうこと……!?」
 ある筈のないその光景に、小さくではあったが、赫夜が悲鳴に似た声をあげる。
 始めに赫夜たちを襲って来た集団と連携して、自分たちを挟み込むつもりか。もしそうなら、赫夜と雄莱の逃亡の道筋が後方の集団にも筒抜けになっていたことになる。
 しかし、一体何故。
 流石に二人は動揺したが、すぐにその場で作戦を立てた。
 やってくる一団は大袈裟なことに騎兵の姿が目立つ。ここが岩砂漠であったのがまだ幸いしたのか。平地ほどには、歩兵と騎馬の力の差はないものの、険阻の地であっても、騎馬一騎は歩兵四人に相当するといわれている。だがこれは戦争ではない。彼らは勝たなくてもよい、逃げ切れればいいのだ。
「もうたくさんだ! あれっぽっちの金じゃ割に合わねぇぜ! 俺はもう抜けさせてもらう!!」
 これは彼らが、足止めをしていた護衛の兵に頃合いを身図って言うように命じていた台詞である。これを雄莱はよく通る声で癇癪を起こしたように叫んだ。間をおかず、本当に逃げ出す。
「待てよっ。俺も行くっ!」
 赫夜もなるべく低い声を出して、やけくそのようにがむしゃらに追いかける。皇族の洗練された優雅さとは無縁の騒々しさを演じ切る。
 朝楚兵陣営で陽香語を知る者は多く、そのうちの一人が隊長に尋ねた。
「どうします、追いかけます?」
 この一団は赫夜公主を捕らえるために組まれた二隊のうちの、さんざん失敗を重ねた第一隊隊長が率いる方の隊だった。
「いや、放っておけ」
 どこか血走った目で隊長は答えた。陽香公主にしか用はない。第一、逃げて行く二人の兵のうち、でかい方はかなり我が隊に損害を与えたあの男に違いない。下手に追っては、かなりの時間と味方数人を失うはめになるのは分かり切っている。逃げてくれるのはおおいに結構だった。
「それより早く前に進むべきだ。早々に我らに挟み込まれていることを公主に知られてしまえばことだ」
 公主の逃げる道筋はここに間違いない。もうすぐあの生意気な第二隊隊長・岨礼淨(そ・れいせい)が公主を追い立てて来るはずだ。
 そうすれば任務も終わり…………
「違う、そいつは公主だあぁ……っ!」
 瞬間、発言者以外の全ての者が凍りついた。
 突然闖入してきた声に、雄莱と赫夜は思わず立ち止まり、発言者の方を振り返ってしまった。
 赫夜たちを追って来るようにして後方から走って来た若者。
(な……っ!?)
 ぴゅんっ
 軽く、鋭い音を鳴らして、若者のさらに後ろから来た集団から矢が飛び――雄莱の脇を抉った。
 雄莱は呻いて、たまらず膝を付いた。
 それを引きつった瞳で赫夜は凝視する。
 歓声だか怒声だかが上がった
 どうしても二人は信じられなかった。
 その発言者の若者が、遜角であったからだ!!



*     *     *




 あっけなかった。
 何もかもが決した瞬間、第二隊隊長・岨礼淨は、そう思った。
 これまで公主一行を追いかけていたのは第一隊の方である。第一隊隊長は、第二隊に先駆けて公主一行を発見したのを出世の機会と見たのか、連絡をおくることなく、自力のみで公主確保を目論んだのである。結果、隊の過半数を徒に失うという大失態を演じた挙句、結局合流することとなったのだが。
 もっと早く連絡がきてさえいれば、今頃は公主を朝楚に連れ帰って、今頃はのんびり自宅にいた筈なのだ。事実、自分は合流して五日で成果をあげてみせた。
 横から、第一隊隊長が、言い訳がましい視線を向けて来るが、礼淨は完全に無視をした。この男の無能さは知っているつもりだったが、流石に呆れているのだ。
 何しろこの男は、公主をそうとは知らず逃がしてしまうところだったのだ。いくら男装していたとはいっても、よく見れば分かりそうなものではないか。礼淨がもしや何か失敗してはいまいかと思って、急いで江洪村の若者を第一隊へ走らせ、自身も隊を率いて駆けつけてみれば案の定。
 ここまでくれば愚かというのも愚かしい。自分の第二隊と合流するまで三度失敗したのも道理というものだ。
 確かに陽香公主の護衛は相当の手だれだった。とくにあの雄莱という男は自国の名だたる勇者も顔色なからしめると、兵どもが敵ながら褒めたたえていた。この目で確かめられなかったのが少し無念である。
 だが自分はこの無能な男のように、数で勝っていることを恃みにして、馬鹿正直に正面から戦ったりはしない。何のために戦略というものがあるというのだ。それを小心と皆は嘲笑するやもしれんが、事実倍以上の戦力差があったにも係わらず、第一隊との三度の戦いで陽香兵は二人しか死者を出さず、四十名からなる第一隊は死者十名を越えた。誇りというものがどれほど無意味なものか分かろう。
 岨礼淨は勝利に笑むと、馬を公主たちに近づけた。
 赫夜公主は雄莱の脇腹を抉る鏃(やじり)を凝視し、まだ呆然としている。村の裏切りが信じがたいのか、それとも逃げる手立てが完全に消失したことに絶望しているのか。彼女が、次に一体どのような行動を取るか、彼にはいささか興味深かった。
 遜角はすっかり青ざめて、雄莱と赫夜の両者から視線を後ろめたそうに逸らしていた。誰も動かぬ中、雄莱だけは苦しげに呪詛を吐いて大地に爪を立てた。
 おそらく彼は、村長の孫の行動はおそらく村の総意であるに違いないと無力感に襲われながらも悟っているのだろう。
「も…申し訳…公主!」
 血を吐くように、雄莱は声を出した。
 その声に、公主はようやく彼から目を外し、取り囲む兵を見た。そして彼女もまた、やがて取るべき道がひとつしかないことを認めないわけにはいかなかったのか、その瞳が覚悟に染まった。
 礼淨は赫夜が無言で自分の方を向くのを見た。髪は肩程しかなく兵士姿ではあったが、それは紛れもなく公主だった。匂い、風貌、歩き方、そして何よりその雰囲気。人格の善し悪しに関わらず、身分の高い者は得てしてそういう気を纏うものだ。
 赫夜が礼淨を見たのは、この場でもっとも格上だと見当をつけたからだろう。
 彼女が発したのは、簡潔な一言だった。
「手当なさい」
 それは綺麗な朝楚語であったが、礼淨は始め何を言われたか分からなかった。赫夜公主は逓雄莱を指さして繰り返した。
「何をしているのです? 早く手当をなさい」
 その命じることに慣れた口調は礼淨を反射的に従わせようするだけの高貴さがあった。だが礼淨は踏みとどまって問い返した。
「どうして我々が兵士ごときに情けをかけねばならぬのです」
「わたくしを生きて捕らえたいのなら」
 公主が兵士の手当のために命を懸けるという。この兵士に公主は身分違いの恋情を抱いているのだろうかと礼淨は邪推した。だが結局手当てをしたところで何も害はないので、とりあえず部下に命じた。
「おい、お前。おっしゃるとおりにしろ」
「あ、はっはい!」
 雄莱に近寄った朝楚兵はこの勇猛の敵兵に警戒していたが、雄莱はおとなしく処置を受けた。その間に赫夜は手首を柔らかい布で縛られ丁重に、だが強制的に馬に乗せられた。
 遜角はおどおどしながら礼淨に哀願した。
「捕らえなければならないのは公主さまだけでしょう。雄莱さんは……」
 雄莱などという男に用はないので、礼淨は片言の陽香語で、
「ああ、返してやる」
 遜角はほっとしたように肩の力を抜いた。
 小心な、だが正直な若者である。
 礼淨が赫夜の護衛兵の中に内通者を造るため、江洪の村に出向いたのは赫夜たちが村を出発した直後だった。そして礼淨は村に二つの選択を迫った。もはや滅びた皇室のために今ここで村が全滅するか、それとも朝楚の手助けをして礼金と平穏を手に入れるか。
 結果、村は後者を選び、赫夜は捕らえられ、一行が緋楽公主のいる櫂領を目指していたことも遜角の口から漏れた。唯一の救いは赫夜が雄莱にさえ吉孔明の生存を明かしていなかったことだ。まだしばらく朝楚は焦って櫂領を攻撃したりはしないだろう。
 村の、村長の選択は責められるべきものではない。会ったことも見たこともない皇族を盲信的に崇拝し、皇族のために殉じることを厭わないという、そんな『忠誠』と『犠牲的精神』を望む方がどうかしている。皇帝の血を引くというだけで無条件にその人間を至上としてしまうのは明らかに正しくない。
 それでも、それでも雄莱はここにはいぬ村長を責めてしまいそうだった。そして安易に村に寄ることを提案した己を罵る。一番許せないのは他でない――村を巻き込み、赫夜を守りきることも出来なかった自分、だった。
 しばらくして雄莱の手当は終わった。とうとう捕まえられ、ただ独りどこかに連れて行かれるのだと赫夜は暗く思った。やっと変わっていけそうだったのに。
 朝楚兵たちは出立の準備を始めた。朝楚の都・広絽に戻るらしかった。赫夜は遜角と共にそれを見守る雄莱を見やった。
 ―――もう二度と会えない。
 無意識に独白していた。考えてのことではなく、直感のようなものだった。それはわたくしが二度と陽香に戻れないということか。それともただ単に公主と一介の私兵という立場の違い故に再会を果たせないからだろうか。
 それとも。
 考えた途端、訳も分らず圧倒的な悲しみが赫夜を襲った。なんとも言いがたい、そして抗いがたい絶望感。これはなんだというのだろう!?
 だが、訳も分らぬ直感に全身を打たれた赫夜に頓着するでなく、蒼穹に礼淨の号令が響き渡った。
(…………雄莱っ!)
 助けを求めたくて、けれど赫夜は何も言わなかった。どんな言葉でも情けなく、醜くなりそうだった。最後の言葉かもしれないのに。
 異国に行くというよりもこの場に彼を残して去るということこそが、公主を孤独にしていた。
「赫夜さまっ!」
 赫夜が果たせなかったことを、雄莱はあっさりとやってのけた。必死に赫夜の名を叫ぶ。赫夜の目から涙が離れた。
(……雄莱っ)
 だが、声は出ない。そんな赫夜に、雄莱は無理に立ち上がって駆け寄ろうとするが、何とか止めようと遜角がしがみついてくるのを引き剥がせずにいる。
「やめて下さい、雄莱さんっ! もうどうにもなりませんっ!」
 いくら雄莱が勇猛な兵士でも、一人では犬死にするだけだ。だが雄莱はどうしても駆け寄りたかった。赫夜が見せた不安に、どうしようもなく胸が締め付けられた。
「赫夜さまっ!!」
 だが叶わなかった。公主の姿はすぐに豆粒になり、消えた。
 この先降りかかるだろうあらゆる苦難から、もう雄莱は赫夜を守ることは出来ない。
「くそ……っ」
 無念の声を上げる雄莱を遜角は物言いたげに見つめていた。
 彼は自分にとっての正義を貫く雄莱が、息苦しく感じた。自分たちの卑怯を知るからだろうか。疎ましくさえ思う。
 遜角の表情から後ろめたさは消え、かわりに暗い――どこまでも昏い眼差しがあった……。











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