赫夜の章 [6]





 重厚と呼ぶよりも華麗といった感のある朝楚王宮・絮台の政務室。正餐の途中で突然呼び出された螺緤王女は、螺栖女王の前に額ずいていた。その姿を、控えている官吏たちが息を潜めて見守っている。
 ――本来ならば、螺緤は女王に対して、叩頭する必要はない。彼女はただの臣下ではない、王女であり時期女王である。ただ丁寧に拱手をすればいい。それが例え、国家の式典であっても跪くだけだ。しかし螺緤はそれを許されてはいなかった。直接言葉を交わすことこそ出来たが、王位継承者としての扱いはほとんど受けたことがない。
 今日も、彼女は身分の低い者がするのと同じように、ほとんど床に額をこすりつけるように叩頭し、女王の言葉が降りるのを待っていた。―――面を上げよ、との声が掛かりがあり、初めて玉座を拝む。
 顔を見せた娘を、女王はしばし無言で見詰めた。娘は母王の瞳を懸命に受け止めようとする。冷静にあれと――掌を握り締めた爪の痕で傷つけながらも。
 それは、まるで親子のさまには見えない。息の詰まる緊張の空気に、慣れてはいても居合わせた臣下たちは胸の内でこっそりと溜息をつく。彼らには、女王としての威厳にしがみつく螺栖と、それに翻弄される螺緤がともに哀れであったし――滑稽でもあった。
「其方、近頃何か余に隠してはいまいか」
 身を擦り切らせる長いようで短い沈黙の後、女王は漸く口を開く。だがそれは、重苦しく螺緤の心を曇らせはしても、穏やかにはしない。彼女の方には質問する権利はなく、ただ答えるのみ。
「いいえ、妾は母上に隠すべきことなど、一つたりとも持ち合わせてはおりませぬ」
 言うなり、すぐに叱責があった。
「母と呼ぶでない!」
「申し訳ございません、陛下」
 身を竦めて謝罪する。公式の場でなくとも、人前では母と呼ばわることを禁じられている。その厳しさが螺緤を女王として育てようという心意気からくるものではなく、単に娘にも服従を求めているだけだと、螺緤は今では理解している。
 ――子供の頃は。
 わけも分らず、ただ泣いた。
「まあよい。で、隠すべきことはないと申したな。では其方は何故、公主を度々訪ねていったのか申してみよ」
 来た、と思い、螺緤は覚悟を決める。いつかは露見するとは思っていた。それが思うよりも早かっただけのこと。
「陽香という国を知りたかったためでございます」
「何故じゃ」
「……陛下。妾は陽香だけではなく我が国についても知りとうございます。どうか妾が陛下の後継者に相応しくなれるよう、妾に政を御指導くださいませ」
「必要ではない。出過ぎたことを……控えよ」
 取り付く島がない。
 分かっていたことなので怒りはない。ただ、切ない。
 誰に教えられるでもなく、螺緤王女にも分ってきた。この国がよくない方向に進んでいっていることなど。
 ガクラータ王国は信用できない。かの国は何故援軍を出さないのだ。たかだか国王でもなければ王太子でもない、側室の王子が死んだだけだ。その気になればすぐにでも出兵を再開できるはずだ。そうでもなくてもこの戦争はガクラータ王国が起こしたものなのだ。自分たちが原因の火種くらい、責任を持つべきだというのに。
 ガクラータ王国はぎりぎりまで出兵をするつもりはないのかもしれない。朝楚を利用するだけ利用して、美味な所だけしか食わないつもりなのか。
 怪しい……信用するどころか、危険なものと認識すべきだ。ガクラータは国内に不穏を残しているというし、かつてのように安定した国とは言えぬのかもしれない。
 螺緤の内心の声を聞いていたかのように、螺栖は言った。暗い、実年齢以上に老獪な、そして歪んだ瞳を向けて。
「螺緤よ。其方はどうやら政治向きではないようじゃな。余の信用できる臣にでも降嫁を考えてはどうじゃ」
 冗談ではない。
 螺緤は身を強張らせた。
 それは単なる脅しでしかないだろう、今はまだ。しかし、螺緤を疎ましく思い始めている。次は本当に実行するだろう。女王はそういうことに関して、全く容赦がなかった。
 女王の重用する臣下といえばもう四十代以上の者ばかりだ。政略結婚は仕方ないと分かっていても、まだ一八才の螺緤はそこまで諦め切れなかった。
「どうするのじゃ、螺緤」
 しゃん、と錫を鳴らす女王。
 追い詰めるように返事を急く女王に、螺緤は内心の驚愕を包み隠そうと苦心しながら、言葉を選んで返事をする。
「陛下におかれましてはもったいないお心遣い、感謝いたします。しかし妾はまだ嫁ぐには幼く、何かと至らぬこともあるでしょう。しばらくは陛下の御膝下で静かに暮らしとうございます」
 昔のように政治のことに関知しないから許してくれという意を含ませ、螺緤は懇願した。
 しばらくの内に格段に上手くなった娘の話術に、螺栖女王は渋面になった。昔ならば取り繕う術を知らず、みっともなく縋り付いたものを、今は上手く立ち回っている。嵐の避け方を心得ている。相手を不快にさせないように。そして、自分の意思を通すように。――だからこそ、信用がおけない。それは洗練されて来た、ということだ。
 ただの小娘でいればよいものを、この娘はどんどん女王に相応しくなってくる。どれほど妨害しようとも、娘の本来の聡明さは隠しきれなくなっている。
 確かに螺緤は母たる己の血を濃く受け継いでいる。血統だけは優秀な父親の愚鈍さは微塵もない。だからこそ娘には心を許せない。
 いつか牙を剥き出しにしてくるのではないか、と。



*     *     *



 延期していた陽香への出兵の再開を議会が満場一致で承認した日、ダン伯爵フラント=カサンナは自宅に客を招くため、早めに帰宅した。フラントはダン伯爵なのだから、当然ダンの領主であり、本邸はダンにある。しかしダンは都から五日もかかるので、政治が混乱しているときは都にある別邸にいることが多かった。そして今、彼が帰ったのも別邸だ。
「父上。どなたかいらっしゃるのですか」
 フラントが家の者に指示を与えているのを見て、息子のテイトが尋ねた。
「クリストファー=ザラ卿が来る」
 テイトは首をかしげた。
「何の御用で?」
「殿下のことだろう」
 言われ、テイトは王太子の側に常に付き従っている男のことを思い浮かべた。
 クリストファーを思い起こすとき、いつも彼はレセンド王太子の側にいた。そんな光景しか思い浮かべることが出来ない。テイトには、そんな彼のありようが王太子の陰のように思われた。
 考えてみると王太子を擁護する者は自分の父親を含め数いるものの、腹心と呼べる存在はクリストファー、ただ一人である。別にレセンドが臣下に敬遠されているというわけではない。王太子は主人にするには、けっして気難しい性格ではない。彼は臣下の前では寛大に振る舞うことを知っているし、本人の能力以上のことを要求しない。それは非常に合理的な性格をしているせいだった。力で屈服させるより、理想的な王太子を演じて従わせた方が手っ取り早いのだ。だから、彼は得ようと思えばいつでも忠臣を得られるはずなのだ。しかしレセンドは現在クリストファー以外の腹臣を必要としないようだった。
「テイト。クリストファー卿が来たら、お前も側で話を聞いていなさい」
「わたし、ですか………?」
 以外な成り行きにテイトは喜ぶより、不審に思って問い返した。レセンド王太子の後ろ盾であるダン伯爵が、王太子のに関する話を息子に聞かせたことはほとんど無かった。重要であればあるほど、伯爵は黙した。
 今までダン伯爵は、息子を出世させたり、政治に介入させたりというようなことをなるべく避けているようだった。ダン伯爵は国王の第二妃の兄で、次期国王の伯父である故に議会での発言力も強い。その気になれば、息子を政治に関わらせることが出来るのだが、それをしないのはテイトのことを考えてだった。テイト自身は子爵で、伯爵の死後はその地位を引き継ぐことになっていた。だが伯爵は息子が一族の当主たる器量かどうか、少しばかり不安を禁じ得ない。だからこそ、あまり部相応な物を与えないほうが良いと考えていた。権力も財産も、それを正しい方向で活用出来るようになるまでは渡さない方が良い。
 テイトはそれ程、出世欲も物欲も強くない方なのであまり気にしたことはなかったが、それでも自分が父親に蔑ろにされているようで面白くはなかった。それが、何故か今日は、レセンド王太子に関する話に立ち会いなさいというのだ。
「クリストファー=ザラ卿がいらっしゃいました。お客様を何処にお通しましょうか」
 執事がダン伯爵に問うた。フラントは、一番広く豪華に作ってある応接間に通すように指示して、自身も息子を伴って部屋に向かった。
「父上。何か殿下に………?」
 あの、冷たい色をした従兄弟である王太子に、何かあったのだろうか。
 しかし伯爵は息子の言葉に答えることはなかった。


 応接間でしばらく待った後、クリストファーがやって来た。彼は二十代後半のテイトより五歳程しか年上でないはずだったが、テイトとは比べることも出来ぬほど、政治の中枢に組み込まれている。爵位や役職というような、目に見える地位や権力ではなく、次期国王の右腕として。クリストファーはそれに驕るような性格ではなく、いつも寡黙ですらあったが、いつも輝かしげな光りに覆われていた。しかし、今日の彼は何処か疲れた顔をして、やつれていた。
 彼はそこにテイトの姿を見つけて、僅かに意外そうな顔をしたが、すぐに再び自分の物思いに捕らわれたように、思い詰めた表情に戻った。
「よく来てくれた」
「遅くなって申し訳ございません」
 どこか形式的に頭を下げたクリストファーに、ダン伯爵は椅子に座るように言った。
 言われた通りに座り、使用人が紅茶を運んで去るまでの間、クリストファーはもどかしげに口をつぐんでいた。完全に姿が見えなくなってから、おもむろに彼は切り出した。
「わたしがどのような用件でここに参ったか、伯爵はうすうすご存じだと思いますが」
 それだけの必要最低限の前置きさえ煩わしいかのように、短くクリストファーは言った。
「ああ、卿がそれとなく示唆してくれたものだからな」
 嘆息してダン伯爵フラント=カサンナは肯定した。クリストファーはダン伯爵に会見を願い出たとき、その理由をそれとなく話していたのだ。
 彼はアルバート王子死亡のことを話題に振ってから、『出兵の前夜、王太子殿下の御寝所には、あの姫が侍っていたそうですね。一度も証言台に立たなかったので、忘れた人も多いようですが』と耳打ちした。その言葉が意味するところに、ダン伯爵は著しく動揺した。だからこそ、主君たる王太子に秘したこの会見に応じる気になったのだ。
 居合わせているテイトは何が話題になっているのかさっぱり掴めなかった。テイトは自分が話から疎外されていることに気分を害しながらも、父親とクリストファー卿が何のことに対して話しているのかを、テイトは探ろうとする。
「アルバート王子が亡くなった、あの事件のことです」
 疑問に満ちたテイトの視線に気づいて、テイトが問うよりも先に、クリストファーは助け舟を出した。が、テイトはそれを素直に感謝出来なかった。侮られていると感じたのだ。こんなことも分からないようだから、教えてあげるしかないといった、幼子や愚者に対する態度に見えたのだった。
 しかしそれは穿ち過ぎというものだった。実際、クリストファーはそんなことを考える余裕などなく、彼はひたすら話を早く進めて、ダン伯爵から良い知恵を借りようとしていただけなのだから。彼はレセンドが以前のように戻ることを切望していた。
「公主がそれに何の関係が………」
 テイトはまだ分からなかった。だいたいあの事件は、王太子の正当防衛ということで決着したのではないのか。まだ不信感をもっている者は多いだろうが、テイトは、あの王太子がアルバートを暗殺するなら、疑われるような不手際をするはずばないと思っている。それにアルバートの母親である第三妃のセリースも、息子が殺されたというのに、反論もしなかった。
 それどころか、あの子ならやりかねませんわと、裏ではそう言い放っている。
「お前がいると話が進まない。すまないね、クリストファー卿。ごらんのとおりどうしようもない息子で」
 テイトはむっとした。しかしテイトも別段愚かというわけではない。ただ、王太子と接することも滅多になく、予備情報がないので、推測することが出来ないのだ。テイトは春陽を王太子が愛していることすら、知らないのだから。事前に説明しなかった、フラントが悪い。
「それじゃ、なんですか。春陽公主がアルバート王子を殺したとでも………言う、つもり………」
 軽口を叩く声がだんだん声が小さくなってゆき、最後には完全に絶句した。伯爵が息子を案じることのひとつに、口で身を滅ぼさないかという懸念がある。テイトに言わせてみれば、聞かせる相手は選んでいるとのことだったが。ともかく、テイトが絶句した理由は、流石に真剣であるクリストファーに、この手の冗談を言っては不味いと気づいたから………ではもちろんなかった。自分の台詞が冗談にならないことに、ふと気づいたからだ。
 恐る恐るクリストファーの方を見ると、否定はされなかった。瞳が肯定している。嘘だろ、とテイトは口の中で呟いた。
 衝撃を受けてる息子を横目で見ながら、伯爵は自身もまた動揺から脱することが出来ないでいた。
 クリストファーは自分がこの秘密を知ることになった切っ掛けを説明した。勿論、昨日の王太子妃レイナの独白が事実かどうかの確証はない。また、レイナは多くを語った訳ではない。
「かの人は、レセンド殿下を傷つけたのも、アルバート殿下を殺したのも、お互いではないとおっしゃっていました」
 春陽がアルバート王子を殺したとは一言も言っていない。ただ、事件が起こったとき、彼ら王子以外にその場にいたのが春陽であったのと、レイナがその台詞を呟く前に、マーサと話していた会話の内容が、クリストファーに犯人は春陽だと思わせていた。無論、クリストファーはこれが自分の想像でしかないことを認めていた。
「レイナさまか………。あの方もつかめない人だな」
 テイトが呟くのに、フラントも心の中で息子に同意する。ランギス王国の王妹殿下。いつもシュナウト宮殿の奥深くに閉じこもって、第二夫人のマーサの方がよっぽど正妃のようである。だが、あの王女はそれだけの人物ではないような気がする。
「ともかく、王太子妃の言うことが真実であっても公表は出来ないがな」
 フラントの言葉にクリストファーも同意した。公表すれば、同時に王太子が偽証したことも明らかになってしまうからだ。
「ならば、我々ができることがあるとしたら春陽公………姫を王太子殿下から遠ざけることだけか」
「ええ」
 ダン伯爵も、犯人が春陽としか思えなかった。どんな経緯があるのかは分からないが、王太子が自分が疑われるのを覚悟で庇う人物がいるとしたら、春陽しか思いつかなかった。王太子がこれ以上春陽をそばに置いておけば、必ずまた何か騒動が起こるだろう。
 もし春陽が犯人でなく、全てがレイナの虚妄であったにしても、いつまでも陽香の公主であった娘を側に置いておいては、差し障りがあろう。王太子が春陽を愛していることに人々に知られれば、批判は免れぬ。勿論それで揺らぐ王太子の地位ではないが、地位は揺るがずとも、春陽を手放さねばならぬ事態をいつ迎えてもおかしくない。そのとき王太子が仲間である貴族を敵と見なしたら?
 古今東西、女で身を滅ぼした君主のどれほど多いことか。それは単純に悪女に溺れた愚王だけではなく、身分違いのささやかな純愛を貫いた結果であったり、家柄も良く聡明ですらあったのに、家臣に疎まれている女性を娶ったが故に玉座を追われた王もいる。
 それがあながち杞憂でもないことを知っているから、フラントは初めて春陽に会ったとき、春陽に釘を指したのだ。春陽を見る王太子の表情が常でないことに気づいたからだが、まさかこうも的中するとはあのときは思わなかった。
 しかし………逸るクリストファーに、フラントは言う。
「だが、今はまだ、王太子殿下は姫への愛を理由に、政務を疎かにはなさっていない。家臣たちも何も気づいてはいまいし、ならば今は静観するべきでは」
 クリストファーだけでなく、テイトもまた意外なことを言われて、驚きを禁じ得ないようだった。
「それはつまり、何もするな、と」
 憮然として、クリストファーは問うた。
「政務を疎かにしていないと? 春陽姫を庇って偽証することが、疎かにしていない貴方さまはおっしゃるのですか!?」
 クリストファーは激昴し、テイトもまた、反論する。
「家臣は気づいていないと父上はおっしゃいますが、王太子妃は知っておられた。何故あの方がそれを知ってらしたのかは分からないですが、殿下が春陽姫を愛していることにも、アルバート王子を殺したのがレセンド殿下でないことも、あの方は知っておられた。そして現に彼女の口から、クリストファー卿は今回のことを知ったのです。他にもまた、情報を得た者がいるかもしれません」
 ダン伯爵は二人の青年を交互に見やった。そして、重苦しい吐息をついて、言った。
「だが、下手にお止めしては、却って執着なされるかもしれない。殿下は指図されるのが御嫌いだからな。どうだろう、クリストファー卿。しばらく静観しては」
 彼らは反論は出来なかった。確かに王太子は己の決めたことは、貫き通すだろう。特にそれが、初めて理性をかなぐり捨てた恋愛なら。
「……やむを得ないですね」
 不承不承、彼は頷いた。しかしけっして納得したわけではない。ダン伯の顔を立てただけだ。レセンド王太子も一目置いている、ダン伯爵の助言を期待していたのだが、結局のところ伯爵の言ったことは、ただ黙って見てろ、ということだ。それが出来ないから不敬と知りつつ、敢えて王太子の目の届かない所で、密談めいた訪問をしたというのに。家臣たちの動向を見張る以外には何もしないなど。
 悔しくて、人目があるというのに歯をぎりぎりしそうになり、クリストファーは寸前で堪えた。
「では、わたくしはこれで失礼させて戴きます」
 明らかに納得してない様子でクリストファーは急に立ち上がると、非礼だとは知りつつ、茶を全て飲み干すこともなく、碌な挨拶もないままカサンナ家を辞した。
 客人の背中を見送った後、暫く親子や無言だった。しかし、意を決したテイトは父親に尋ねた。
「………何故わたしを同席させたのです、父上」
 こんな重要なことを、何故今まで何も明かさなかったテイトに、知らせたのか。
 息子の当然の問いに、カサンナ家の当主は息子をじっと見つめた。
「明日、王太子殿下の出兵に追随することを願い出なさい」
 ふっとテイトはフラントの瞳を見つめ返した。
「わたしに殿下を見張れと?」
「────そうだ」



 同じ夜、遅くに自分の宮殿に帰った王太子は、そのまま春陽の部屋に直行する。今夜は春陽の寝室で眠ることに決めていた。本当は毎日でも彼女の顔を見なければ安心できなかった。これでも抑えてしているのである。
 あの夜以来、春陽のことに関して、自分でも驚くほど自制のきかぬ己を、王太子は扱いかねていた。一度堰を切った想いは、とどまることを知らない。それは純粋な想いであれ、劣情であれ。それでも、春陽のことを思うと、王太子でさえ痛ましく思う。あの夜、春陽に受け入れられたあの瞬間、春陽が祖国のことでどんなに傷ついても、自分には関係ないと思った。しかし、陰で実際に苦しんでいるような春陽を見ると、やはり罪悪感を感じぬでもない。
 祖国を裏切ってしまった春陽。レセンドにとっては僥倖なその事件は、春陽にとっては身を切られるより辛い選択だったはずだ。
 レセンドはずっと疑問だった。何故春陽は祖国を裏切ってまで、わたしを選んだのかと。おそらく同情したのであろうが、それだけで春陽のような女が道を踏み外すだろうか。レセンドは彼女のように強く、聡明な女を見たことがない。そんな彼女が弱くなるのは、祖国において来た恋人に関することだけだ。
 そんな恋人をまでも裏切って、どうして春陽はわたしの元に残ったのだろうか。恋人よりもわたしを選んだのだと考えるのは、自惚れ過ぎというものだ。
 春陽の部屋の前まで来ると、侍女が扉の前で待っていた。はしばみの瞳、亜麻色の髪。あれは、確か春陽が一番目をかけている───エーシェとか何とかいったか。
「姫さまはご気分がすぐれません。どうか今宵は………」
 おっとりした風の少女は、しかし懸命にそう訴えた。
「病か」
 厳しくなった王太子の表情にエーシェは脅えたが、何とか勇気を奮い立たせた。
「───いいえ」
「では何だというのだ」
 答えようになく、エーシェは口を噤んだ。
 三日後に、陽香に向けてガクラータは出兵する。それを見送るときに着るドレスと宝石をどうするか、侍女のひとりが無神経にも尋ねたのだ。春陽は、かなり長い間逡巡して、自国からもって着た青玉の腕輪を持って来るよう言った。春陽は差し出された腕輪を手にして、急に黙り込んでしまったのだ。それから一言も発してはない。その姿にエーシェは、春陽が自国の災厄に対して嘆くとともに、花鳥の死を思い出しているのだと考えた。
 エーシェはさまざまと花鳥の死に様を思い出した。喉を突いて死んでいる彼女を見たときの衝撃が忘れられない。
 いつもささやかに、咲き初めの花のように微笑んでいた花鳥。姫さまに心からお仕えし、姫さまも彼女を見るときは瞳を和ませていた。エーシェは花鳥が好きだった。
 それが───自殺するなど。遺書に、祖国が攻撃させるのに耐えられなかったと、陽香語で書いてあったというが、エーシェは実物を見ていないし、見ても陽香語など分かる訳がなかった。───エーシェはもちろん真実を知らない。花鳥の死はそうして、厳重に事実から遠ざけられた。春陽が疑われるのを防ぐためである。
「わたくしどもも理由ははっきりと存じません。ですが、何か悩んでおられるご様子なのです」
 エーシェはもう一度、王太子に頼んだ。花鳥のことで春陽がふさぎこんでいるという確信はないが、それも原因の一つなのは違いない。だからエーシュは侍女の身でありながら王太子の入室をなんとか拒もうとしているのである。
「泣いて、おるのか」
 王太子の問いにエーシェはかぶりを振った。
「いいえ!───姫さまはお強うございます。気丈であらせられます」
「なら、………入るぞ」
 強引に王太子は中に足を踏み入れた。エーシェはそれ以上、意見することを許されてはいなかった。
 部屋のなかで、ゆったりと長椅子に座る春陽を見つけると、レセンドはそのまま真っすぐ彼女の方へ歩み寄った。
(泣いてなど、いない)
 哀しんでなど、ない。感傷に浸ってなど。
 いつも通り背筋を伸ばし、迷いのない、勁い黒曜石の瞳。
 それが今の春陽の印象。だが。
  ────まやかしだ。
 彼女は国を裏切った瞬間、絶望に絶叫したではないか。恋人を想うとき、あんなに儚かったではないか。
 知っているのだ、もうわたしは。
 彼女が追い詰められていることに。
「エーシェが何を殿下に申し上げたのですか」
 何でもないように、ごく普通に春陽は尋ねてきた。なんという精神力であろうか。
「部屋に入らぬように、と。お前、心配させるような何かをしたようだな」
「まあ。確かに今日は気分が優れませんが、そんな心配する程のことではないのに」
「今日、お前の国への出兵の再開が正式に決まったというのに?」
 言葉を飾ることもせず、ぐさりといきなり切りつける王太子。強がるのを見たくないからだった。他の誰でもない、この自分の前で己を偽ってほしくない。
 だが、春陽は平然と問い返してきた。
「わたくしが何と答えることがお望みですか」
(腕輪?)
 王太子は春陽の問い返しを無視して、彼女の手首が気になっていた。彼女は話しながら、自分の手首に巻かれている腕輪を撫でていたのだ。その異国風の青玉の腕輪に、王太子は見覚えがあるような気がした。
 その腕輪は、レセンド王太子の記憶を不快に引っ掻き回し、ある場面を彼に思い起こさせた。
「その青玉の───は?」
 そのとき、ほんの刹那であるが、確かに春陽は動揺した。
 自然、王太子の声も低くなる。
「あのときも付けていたな」
 あの夜。
 わたしの喉を小刀で一突きせんと振り下ろされた、春陽の腕。
 細い手首に青玉が冴え冴えと月に映え、光っていた。
 あれを見たのは、今を除けばあのときだけ。
「―――ただの腕輪でございます。国から持ってきた」
「ただの? ―――違うな!」
 激しく、王太子は断じた。
 ただの飾りを何故、それほど大切にするのだ。あまり女が身につけるには簡素なものなのに。何故、あの日と今日だけ、その腕輪は春陽の手首を飾ったのか。偶然ではあるまい。
「恋人に送られたものだな」
 己の嫉妬を愚かしく思いながら、彼は問う。
「いいえ、違います」
 王太子に指摘されたことを恥ずかしく思いながら、春陽は嘘の言葉を吐き出した。
 想いとともに捨てるべきだった。踵まであった黒髪と同じようにして。けれどどうしても出来なかったのだ。
 この腕輪に未だ頼ろうとする自分が嫌だった。売国奴の公主が、未だこれを身につけることで、兄さまと繋がっているつもりか――絆を自ら断ったのは自分であったのに。
「なら、捨てられるな。この窓から投げろ。同じものを作ってやるから」
「っ ――!!」
 今度こそ、春陽の顔色が変わった。出来るものなら、初めからそうしている。
 無言が全てを語っていた。王太子は苦々しくそれを眺めた。見たくないものを見るために、物事を試すなど、馬鹿げたことをしてしまった。
 春陽とあろう者が、自分を偽ることが出来ぬ程、この石ころを大事にしている。己の心を露にすることよりも、この玉を失うことを恐れている。あまりに稚拙で、ひたむきな想いだった。
 レセンドは完全に敗北していた。
 逆恨みと知りつつ、春陽がその男と祖国を思うことが許せなかった。そこまで春陽に想ってもらえる存在があることが許せなかった。
 同情してもらえたことでもまだ、不足か。なんてわたしの心は薄汚く、貪欲なのだろう。
 だが今に始まったことではない。それにわたしは春陽が祖国を裏切ったとき、あれほど嬉々としたではないか。今更、罪悪感など抱くこともない。
「春陽」
「なんでございますか」
 レセンドは笑った。そして、同じぐらいに涙したかった。
「お前もついて来い――陽香の反乱の制圧に」
 そしてお前の目の前で全ての者を殺してやろう。



 その四日後、ガクラータ王国は約四万人で構成される軍を送り出した。
 まだ世界で軍事革命が行われる前なので、国王自身か直系の王族が自ら大将になっての戦である。当然、レセンドがその任に就き、反乱の制圧をしに、陽香に向かう。
 レセンド王太子が海に出た後に、ガクラータ王国の都はある噂が蔓延することになる。
 曰く、王太子殿下は戦争に女を連れて行ったのだ、と。しかも女とは陽香の公主なのだとまで。
 無論、王宮では誰でも知っていることで、眉を顰める者はいても表立って非難する者はなかった。しかし何故市井の者が知っているのか。誰かに扇動されたようだと、ダン伯爵フラント=カサンナは思った通り、民衆はある人物につき動かされていた。
 傾国の妖人と囁かれ始めるのも、この時である。










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