赫夜の章 [8]





 斉領の王都・淦呈にある斉城。そこに臨時の皇子府を開いた吉孔明の元に、朝楚国からの使者が届いたのは午のことだった。
 そのとき吉孔明は、斉王と櫂王を交えての会議を開いていた。彼は近々他の諸王を呼び寄せ、軍を編成するつもりだった。その考えは王たちも同じなのか、吉孔明が何もしないうちから、引っ切りなしに使者と立ててくる諸王もいる。
 前に吉孔明が斉と櫂の両王に言った通り、朝楚の窮状に対しても、ガクラータ王国はなかなか援軍を出しては来なかった。そのお陰で、吉孔明は奪い返した斉城を本拠地とし、戦いの準備をすることに専念出来た。何度が朝楚が戦いを仕掛けてきたが、吉孔明自身は一度も出陣しなかったし、それでも十分撃退できたのだ。
「それにしても、ようやく秋になりましたなあ」
 小休憩に入ったとき、あの暑い夏の間ずっと牢に繋がれていた斉王が、涼しくなりはじめた風を楽しんでそう言った。未だ現役とはいえ、六十の老体には夏の暑さが堪えたのだろう。
「しかし、冬となればまたそれは、兵が難儀するでしょう」
 櫂王がそう呟くが、吉孔明は事もなげに答えた。
「本拠地のないガクラータ王国の方が、余程堪えるだろうさ」
 何しろ補給が出来ないのだから。
 だが、それを語る前提は。諸王たちは気づいて、顔を見合わせた。
「では、ようやく紀丹宮を………」
 悦びに目を輝かせた斉王に、皇子は頷いた。
 王宮を奪われたら敗北、というのが国と国の戦いである。現に陽香はそれで滅び、今や陽香とは言えぬ国となって、彼の国の属国となっている。しかし、反乱のために兵を挙げた吉孔明は、敢えて紀丹宮を奪還するのを後回しにした。ガクラータ王国にとって、重要なのは斉城の地理であって、紀丹宮ではない。紀丹宮を属国にすぎぬ朝楚の役人たちに任したことからして、それが分かる。だからこそ、まず斉城を奪還した。
 だが、紀丹宮を早く取り戻したいという気持ちに変わりはなかった。彼らにとってこの国とは、紀丹宮に終始するものであった。
 妙に感慨深い主従の沈黙を破ったのは、けたたましい沓音であった。
「吉孔明殿下、火急の知らせが」
 破るように扉を明けて、伝令の兵が走ってきたので、吉孔明はばっと立ち上がった。今はわりと平穏に斉城のなかで暮らしているが、あくまで今は戦争中。いつ何があるかわからない。そこで吉孔明は緊急の用事は全て、兵士に伝えさせていた。会議中だろうが、真夜中であろうが、伝令の兵士は誰を介せずとも吉孔明のもとに駆け込むことが許されている。
「これを」
 息を整えて使者はさっと跪くと、巻物を手渡した。
 吉孔明はもちろん、また朝楚が戦いを仕掛けてきたのだと思った。しかし、そうではなかった。
「朝楚からの使者からです」
「何っ!?」
 色めき立ったのは吉孔明だけではなく、斉と櫂の両王もまた、椅子から立ち上がった。吉孔明はすぐに巻物を広げ、黙々と読み始めた。
 しばらくして、彼は唸った。
「くそっ………」
 巻物の端を持つ指に力が入る。
「殿下、それは何と」
 気を揉んで櫂王が尋ねると、吉孔明は投げるようにして、乱雑に巻物を櫂王・泰義伯に手渡した。
「………では拝見します」
 断って、彼は墨で書かれた文字を目で追った。たちまちに櫂王の顔にも苦汁の色が浮かぶ。そして、斉王に渡した。
 勿論それは朝楚が陽香に、我が国が赫夜公主を人質にしている、と告げた文書である。その上で朝楚は、陽香に朝楚と会合する意志があるかと問うてきている。
「会合………何のために朝楚は話し合いを求めて来ている? 赫夜公主の命を盾にして、何をこちらに要求してくるつもりか」
 和平などという言葉は思いつかない。砦一つぐらいの何かと、交換することを迫られるのかと誰もが考えた。もし和平を思いついていたとしても、もうすぐ紀丹宮にガクラータ王国の軍が到着するのだから、朝楚はこれ以上和平を求める動きを見せることはなかっただろうが。ガクラータ王国を正面から敵に回すことは、誰でも避けたい。
「いま、使者はどこにいるのだ」
 吉孔明は伝令の兵の方を振り返った。
「今、淦呈の城門で待たせています」
「使者の数と装備は」
 吉孔明は難しい顔をして確認した。心得えた兵は、てきぱきと要点だけを答える。
「五人です。帯刀していますが、城門で刀を預けることは承知しています」「罠の危険は」
「どの見張り台からも不審な集団は発見されていません」
 吉孔明は兵に命じた。
「よし、そのまま待機させろ。奴らが定めた猶予までに必ず答えを出して、持ち帰らせることを約束してな。ただし途中で不審な素振りをしたら、すぐ縛れ。殺してはならない。自害もさせるな、いいか」
「御意に」
 伝令の兵は一度だけ素早く跪いた後、さっとすぐに身を翻す。吉孔明は厳しい表情で斉と櫂の両王を見た。二人の老いた王たちは、皇子の凛々しさに見惚れた。
 櫂王が尋ねた。
「何だと思いますか」
「わからん」
 あっさり吉孔明はそう答えた。いくらここで議論を交わしたところで、結局そこに行き着くだろう。
「では我々は重臣たちを集め、話し合わねばなりませぬな」
 斉王はそう言って、準備のため吉孔明に退出の許可を申し出た。
「ああ。それはいいが、ついでに緋楽にもこのことを伝えておいてくれ」
「緋楽公主に?」
 斉王は少し不思議に思ったようだが、すぐに承知した。
「確かにお伝えいたします」
 斉王が身を翻そうとした、そのときだった。
「その必要はございません。わたくしはここにいます」
 若々しい声が、政務室に広がった。張りのある声をなめらかに紡ぎ出したのは、当の緋楽公主であった。
「………緋楽」
 緋楽は真っすぐ射るように吉孔明を見つめながら、確かな足取りで彼の目の前まで進んだ。
「わたくしに何用でございますか」
 吉孔明は無言で、緋楽に巻物を手渡した。彼は妹が取り乱すことを心配したが、それを読み進める緋楽の表情に変化はなかった。
 読み終えた緋楽は、吉孔明に尋ねた。
「話し合いの必要など、あるのでしょうか」
 意外なことを言われ、吉孔明は面食らった。
「お前にとってはこれは易しい問題か。話し合わずとも答えが出る程の」
 動揺しない緋楽に、「お前の妹のことだぞ」と吉孔明は付け足す。
 緋楽は嘆息した。
「………あのときと同じことをおっしゃるのね、兄上。けれど、朝楚の要求に応じることが出来るはずがないでしょう?」
 平時ならともかくこの戦況で、どの臣下がそれを許すのか。
 緋楽の言葉は厳しかった。
「しかし」
「どれほどの話し合いを重ねたところで、結局わたくしたちが選ぶのはたったひとつの結論。それが覆しようのないことならば、どれほど逡巡したところで、赫夜にとってはどちらにしろ残酷なことには変わりないのです。一応は迷ったということが、免罪符になるとでもお思いか」
 免罪符などと考えたわけではない。だが、吉孔明はその言葉に自分を恥じた。確かに彼も、書面を読んだ時点で赫夜を見捨てるしかないという結論に至っていたのだ。だが、即断するのはどうしても出来なかった。あまり面識のない異母妹であれ、見殺しにすることが。それは自ら汚辱に塗れることを恐れている、卑怯な思いから来ていた。
 だが自分の愚かさを差し引いても、この妹の冷たさはどうだろう。あれほど春陽や赫夜公主と懇意にしていたのに、どうしてそれほど容易く、切り捨てることが出来るのか。
「兄上。兄上はすでに義務を負ってしまったのです。兄上以外に皇帝となり得る人間など存在しません。兄上は何事においても、まず大局を読むことを忘れてはなりません。その行動は御自分のためではなく、民のためでなければなりません。民の為に愛する人を切り捨てることをお覚えください。そして、さまざまな犠牲のもとでしか、民を幸せにすることが出来ないことをお知りださい」
「春陽とて、陽香の民だ!」
「――その前に公主です。わたくしや兄上がそうであるように。父上がそうであったように」
 吉孔明の口から飛び出した名前が今問題となっている赫夜ではなく、春陽の名前であったことに緋楽は哀しい気持ちになった。兄は今、赫夜の境遇に春陽を見ているのだ。だからこそ、春陽に対してしか弱くならないはずの彼が、これ程までに逡巡したのだ。
 春陽に、挙兵を告げる使者が送られたと知ってから、吉孔明の中では今でも血が流れ続けているのだ。反乱を知った春陽は、きっとガクラータ王国の王族を手に掛けたろう。ならば、もしもしくじったとしても極刑は免れない。
 もう処刑されていてもおかしくない、春陽。緋楽もまた兄と同じように苦しむが、しかし緋楽はその想いをけっしてそれを顔にださない。
 生半可な気持ちで、落都の際に緋楽は春陽に吉孔明の補佐を誓ったのではない。吉孔明の勁さの裏に潜む、優しさという弱さを知り抜いた上で、彼女は兄の傍らにいることを決めたのだ。
 独断で春陽に使者を送ったときも、今赫夜を切り捨てることを進言したのも、それが緋楽の意志というよりは、吉孔明が自分から決断出来ぬことを代わりに自分が決断することで補っているだけなのである。
 ――わたくしに妹たちの命を左右する権利などないのに。
 だが、やらなくてはならないのだ。わたくしが公主である限り。この国を愛している限り。
 緋楽は長い睫に縁取りされた瞳を、伏せた。その様は美しく、だが弱さの欠片もない。そう、必死で緋楽は演じるのだ。何にも迷わない鉄の女を――衆人の前で己の弱さを曝け出す気にはなれなかった。
 一筋の躊躇いも外に出してはならない。決定を下す私たちが惑えば、家臣にはそれが過ちにしか映らなくなる。どちらにしろそれを選ばねばならぬのなら、迷いはただ無為に過ぎぬ。
(わたくしは、わたくしのやり方で陽香を護る)
 何かを決意する度に、大切なものが壊れてゆくけれど………。



*   *   *



 鴎が鳴いた。波の音。
 風の音。
 強い潮の香りがする。
 レセンド王太子は眉を顰めて格子戸を閉めたが、勿論そんなことで潮の匂いが薄らぐはずもなかった。
 レセンドはこの癖のある匂いを好いてはいなかったが、春陽は違うようだった。甲板に出る許可を出してからかなりの時間が経っているが、部屋に帰ってくる様子はない。
 軍艦はもうすぐ炯紺の海へ着こうとしていた。あと少しもしたら、四成大陸に上陸することが出来るだろう。
 もはや春陽は陽香を懐かしがってはいないようだった。先程様子を見に行ってみると、海に向かって挑む目付きをしていた。どちらかを選択することにより、引き裂かれようとする心を護ったのだろうか。ならば何故、わたしを選んだのか。
 レセンドは問うことはしなかった。しかし春陽も問われたところで答えられはしなかったろう。
 そのとき春陽が甲板から、王太子の船室に戻ってきた。もういいのか、と彼が聞くと、彼女は頭を縦に振った。
「いいのです」
 その瞳は光を照り返さない、深遠の闇――。
 その勁い眼差しにレセンドは呑まれた。背筋の辺りがぞくぞくとする。思えば、初めから彼はこの黒曜石の瞳に惚れていた。時折、何を考えているのか分からなくなる、異様に勁い輝きを持つこの瞳に。春陽の瞳は安穏とているよりも、切迫したときの方がより美しい。この凄絶なまでの存在に、圧倒されない人間がいるというのだろうか。
 春陽を倖せにすることが無理なのならば、この瞳を見続けることだけをレセンドは望む。
(そう。もういいのです)
 春陽は心の裡でそっと呟いた。
 ――わたくしは陽香に仇なす者となるのだから。



 それから半刻、終に王太子が率いるガクラータ軍は四成大陸に上陸した。そのまま軍を行進させて、紀丹宮に到着したのがその四日後だった。紀丹宮の者たちが援軍の知らせを受けてからは六日後ということになる。その脅威の速さは、四成大陸の者を畏怖せしめた。未だ、彼らはアーマ大陸の造船技術の秘密を盗み出せないでいた。
 紀丹宮に王太子一行が足を踏み入れたのは朝方のことだった。
 激しい暁の光りが紀丹宮を照らしていた。同時刻のガクラータの王宮が見せるのは、清冽であった。だが紀丹宮は優艶というのだろうか。其処かしらに色めきを感じる。
 この地が春陽が生まれ育った所。春陽という人格をあのように形成した所以が分かるかもしれない。
 優美な紀丹宮の内部を王太子は興味深く観察する。
 春陽はそのまま女官たちに連れて行かれ、レセンドは案内されて傀儡の皇帝・那尖と会った。彼は平凡で貧相な中年の男だった。実はレセンドは彼と会うのは初めてだったが、とてもではないが皇帝の器とは思えなかった。勿論、傀儡の君主としては最適だろうが。
 那尖が挨拶の言葉を話している間、上の空のそんなことを考えていたレセンドは、意外のことを耳にして我に返った。
 那尖は、赫夜公主が現在ここに居ると言ったのだ。
「赫夜公主が? どういうことだ」
 何故、朝楚に捕らわれたままのはずの公主がこの宮にいるのだ。
「朝楚の女王陛下が思し召したことで、わたくしどもには図りかねます」
 那尖は関心なさそうに、そう答えた。まあそうだろうな、とレセンドもしぶしぶ納得する。彼に赫夜を呼び戻す権限などありはしない。
 しかし、螺栖女王は何を考えているのだろうか。
「朝楚の官吏で説明出来る者を呼べ」
 とりあえずレセンドはそう命じておいて、自身は赫夜公主がいるという部屋に向かった。勿論王太子としてそうする必要があったからなのだが、個人的にも春陽の姉という存在に興味があった。



 お召し替えなさいますか、と湯浴みを終えた少女に女官がお伺いを立てた。異国に渡って数カ月、ずっと纏っていたドレスではなく、懐かしい襦裙を差し出される。女官は、瞳に雫を溜めて、優しい笑みを浮かべている。そこにあるのは哀れみ。敵国の――しかも碧眼の異人などの愛妾にされた彼女に対する。
 彼女はそれを無表情に眇めた。
 踝には到底届かぬ、それでも美しい艶髪が、さらりと少女の滑らかな肌に落ちた。
 いいえ、と少女は口にしていた。



「とうとう王太子殿下がこの宮に到着したようですよ」
 朝、目覚めてすぐの岨礼淨の報せに、赫夜はどっと緊張する自分を嫌というほど感じていた。
 王太子に会うことに、ではない。春陽に会うことに、赫夜は極度の緊張を課されていた。赫夜はそんな自分の心の動きに不審を感じていたが、しかし不安は大きくなるばかりだった。
 遠く隔てられたと思っていた春陽が今、自分と同じ宮殿内にいるのだ。
 今までどれほど逢いたいと思っても叶わなかった、異母妹と。しかし、心が沈むのがやめられない。
 礼淨もまた、赫夜の変調に気づき始めていた。最近の赫夜は現を見ていない。彼女の何もかも見通すような眼差しは曇って、ふさぎこみがちだった。何が彼女をそうさせるのか。
 やがて強ばった面持ちの侍女がやって来て、王太子の来訪を告げた。赫夜は何の準備もなしに王太子の前に投げ出されることを恨めしく思いながら、しかしいきなり春陽と会うことにはならなかったことに安堵した。そう思ってしまう自分に傷つきはしたが。
 明るい銀髪の青年が、伴われて姿を現した。
 赫夜は息を呑んだ。アーマ大陸の人間を見る機会があまりなかったせいか、彼女はもともと彼の大陸の人間を識別することが出来ない。しかしこの青年ならば、次に会ったときも見分ける自信があった。それほど彼の容姿は特徴的だった。
 顔立ちが、ではない。彼が纏う硬い雰囲気だ。傲慢に輝く銀の眼差し、神経質そうな鋭い線を描く頬。彼の纏う色彩も相俟って、赫夜はその青年に冷たさしか見い出せなかった。彼の中には滾る灼熱があることなど、彼女には知りようがなかった。
 ガクラータ王国王太子、レセンド=シュリアス=ベクス=ガクラータ。赫夜に絶望を教えた男。彼の冷たい瞳に、赫夜の二の腕が粟だった。気持ちの悪い汗が、冷たい肌の上を流れてゆく。
 彼は初めて声を出した。
「赫夜公主」
 冷たい声だ。赫夜はそう思った。
 勿論彼女にはアーマ語が分からない。だが、『セキヤ』とこの王太子が口にしたのは分かった。
 レセンド王太子はそれ以上何も言わず、赫夜を見つめた。通訳はその場にはいなかったし、何も言うこともなかった。そして何より彼は絶句していたのだ。
(――なんと、似ているのだ……)
 ここまで酷似しているとは!
 これほどまでに異母の姉妹が似ることがありえるのか。
 見間違えるということはない。二人の纏う雰囲気はあまりに違ったので。だが単純に容貌だけを見ていると、本当にそこに春陽がいるかのようであった。
 レセンドは赫夜に、春陽にはない烈しさを見た。それでいて、儚く脆い。
 赫夜には、何故レセンドが何も言わないのか分からなかった。ただ、何故彼がここにいるのかを考えていた。
 ――赫夜は、彼がもう亡いものがと決め付けていたのだ。
 冷靜から、ガクラータの王族が殺されたらしい、という話を聞いていた。また、彼女は螺緤から、春陽がレセンド王太子の寵愛を受けていたということを聞いていた。そのふたつの話から赫夜は、春陽がレセンド王太子を殺し、処刑されたと結論を出したのだ。しかし王太子は生きている。死んだのは彼ではなく、側室の王子――アルバートだったし、春陽もまた生きている。
 春陽は誰も殺さず、その暗殺事件は春陽と無関係だったのかもしれない。他のことに気を取られて、あまり深く考えていなかった疑問が、再び赫夜の心を占めた。
 そのとき、王太子が沈黙を破って口を開いた。
「シュンヨウ」
 ぎくりとして、赫夜は王太子の向く方向を見た。彼は門扉に向かってそう呼ばわっていた。
 『春陽』――王太子はそう言った?
 その言葉のままに、一人の少女がゆっくり赫夜の部屋の中へ入って来た。
 すっと部屋の温度が下がったような心地がして、赫夜は身を震わせた。髪が短くなり、異国の衣装を纏ってはいたが、少女は確かに彼女の異母妹でだった。
 赫夜は、床に足を縫いとめられたかのように身動きひとつ出来ない。
 春陽の黒曜石の瞳に自分が映った。
「――お久しぶりです」
 言葉を紡いだ声も、懐かしい妹のもの。瞬間、赫夜はなにもかもを忘れ、ただ激情だけが彼女を支配した。こうして会えたことが、ただ嬉しい。
 春陽は少し、痩せたように思われる。春陽がガクラータ風の衣装を纏っていることが哀れで、赫夜はいままでの妹の苦労を想像した。
 ここにガクラータ王国の王太子さえいなければ、抱き締められたのに。
「本当に久しいですね、春陽」
 そう答えた自分自身の言葉に赫夜は違和感を感じた。異母妹とはいえ、赫夜は昔から春陽に対して丁寧な言葉遣いを使っていた。しかし、市井の生活に触れ、伸びやかに生きることを知った赫夜は、自分の他人行儀が気になったのだった。
 思えば、普通の姉妹のように、衒いなく触れ合ったことがなかった。どこかいつも遠慮していた。それは春陽に対して劣等感を持っていたからだが、赫夜はそれを恥じ、こんどこそ今までの分を取り戻したいと思った。
「再びお会い出来て、嬉しく存じます、姉さま」
 泣きたいほど春陽を懐かしく思っていた赫夜に、春陽の返事は醒めてそっけないものに感ぜられた。春陽はその言葉ほどに嬉しそうではない?
(………春陽?)
 何処か以前の春陽と違う。
 そう気づいて赫夜は戸惑った。具体的に何が、とは言えない。だがその違和感とは、先程自分に感じたような種のものではなかった。
 ――もっと不快なもの。
 しかし赫夜は気のせいだと思って、頭の端へ追いやった。
「わたくしも嬉しく思います。――春陽、その髪は」
 踵まであったものが、胸の当たりまでになっている。それを心配して赫夜が問うと、春陽がおかしそうに言った。
「姉さまこそ」
 春陽の言うとおり、赫夜の髪は春陽よりも短く肩までだ。赫夜は自分の髪に触れて、そうすることになった理由を話して聞かせた。
「では姉さまのその御髪は、姉さまが精一杯生きた証しなのですね」
 炯帝への忠誠の証しである、長い髪。二人の、それを自ら捨て去った理由はあまりに違い過ぎた。陽香のために生き続けることを望んだ赫夜と、陽香と決別した春陽。
 春陽の薄暗い感情に気づかなかった赫夜は、春陽の言葉に瞳を和ませた。
「貴女もよく生きていましたね」
 赫夜の言葉に春陽は静かに笑う。
 ――微笑うのではなく、嘲笑ったのだ。
「よく、生きて?」
 演技ではなく、春陽は本当に声を上げて笑いそうになっていた。赫夜に会うまでは、自分が慕わしさのあまり、全てを吐露してしまうことを恐れていた。しかし実際会ってみれば、滑稽さしか感じられない。赫夜姉さまは何もご存じではないのだ。わたくしが変貌してしまっていることを、考えもしてらっしゃらない。
「何故、そんな笑い方をするの」
 赫夜の声が強ばった。彼女は再び、春陽に会うことを不安がっていた自分を思い出していた。
 あの、予感は。
「おかしいと思いませぬか、姉さま。何故わたくしが生きているのか」
 たゆたうように、春陽が言う。
「どういう意味です」
 ゆっくりと春陽がレセンドに視線を動かしたのにつられ、赫夜もまた彼を見る。王太子はふたりに見つめられても、動じない。
「わたくしは、そこにいるガクラータの王太子を殺さなかったのです」
(ではやはり、あの側室の王子が死んだ事件は春陽とは無関係だったの)
 そして春陽の様子がおかしいのは、王太子の暗殺がどうしても出来なくて、そのことで自分を責めているからなのだろう。――競りあがってくる不安を無理やり押し込め、赫夜はそう思い込もうとする。
「………貴女が生きていることは、良いことです。貴女はガクラータに渡った時点で、その義務を果たしたのです。貴女がことを成就して死を迎えるよりも、貴女が生きていることの方が、わたくしやお姉さまは嬉しいのですよ」
「わたくしに暗殺の催促の手紙を出したくせに?」
 不穏なものになった春陽の口調に、赫夜は胸を鷲掴みにされた。あまりの台詞に、赫夜は声を出すことが出来なかった。
 赫夜は何のことかは知らなかったが、大体のことは想像出来る。きっと春陽の元には緋楽から反乱開始の報告が届いたのだろう。赫夜自身、斉城奪回の報を聞いたときは、春陽が事をやり遂げ、もう死んでしまったかとも思ったぐらいだったからだ。
 赫夜の動揺振りに、春陽は微笑んだ。今度は朗らかな笑みだった。
「冗談ですよ。それはわたくし自身が望んだことですもの」
「冗談ですって!?」
 赫夜は金切り声を出した。体の硬直が解けて、ぱしっと春陽の頬をぶった。そんなことを冗談でも言ってはいけない。誰もが傷つく。たとえ真実であっても。
 春陽は顔色を変えて頬を押さえ、憎々しげに赫夜を睨めつけた。
「どうしたのです。何があったのです、春陽!?」
 赫夜には、春陽がそのようなことを言うのが信じられなかった。何があったというのか、春陽に。
「――お姉さま。お姉さまは男の人を愛したことがおありになって?」
「? それがどうしたのです」
 急に転じた話題に怪訝な顔をして、赫夜は問い返した。
「わたくしは、王太子が殺せなかったのではなく、殺さなかったのです。――彼を愛したから」
 驚愕が赫夜を包んで翻弄した。
 春陽は何を言っているのだろう。
「アルバート王子を殺したのはわたくしです。けれどそれは陽香の為ではなく、自分がレセンド王太子の傍らに居続けるため」
 目眩が、した。
 圧迫感に胸がむかついてくる。
 これは予感よりも酷い、現実。
(ガクラータの王太子を愛した………ですって!?)
 春陽同様、赫夜もまたあまりの馬鹿馬鹿しさに笑い出したくなった。
 なんとか未然に発作的な笑いを沈めると、今度は目頭が熱くなった。
 そして、これを懼れていたのだと赫夜は悟った。
 唇に乗せた言葉は、乾いていた。
「正気、なの」
「いたって」
 信じられず、赫夜は春陽を凝視した。ガクラータ王国は陽香を滅ぼした。その誇りを貶め、多くの民を奪った。父帝が死んだのも、壺帛賢妃が自害したのも、原因は彼の国だ。それだけではない、春陽の母親である 皇后とて亡くなったではないか。
 しかも、よりによって相手が王太子だとは。彼は、朝楚に陽香との同盟を背約させた張本人ではないか。もちろんガクラータ人の中にも、善人がいるだろう。別にあの国の人間が全て性悪と思い込んでいるわけではない。おりしも赫夜は、朝楚の王位継承者を知ったばかりである。
 だが、この王太子はあきらかに戦で人を殺めても、何とも感じない類いの人間ではないかっ!
 言いたいことは幾らでもあるのに、赫夜は何も言えない。そんな赫夜にとどめを刺すように、春陽は姉妹の仲に決定的な亀裂を自ら入れた。
「今のわたくしは彼のため、陽香に仇なすことも出来る」
「―――っ!」
 一陣の秋風が、紀丹宮の彼女らがいる一室に吹き込んだ。
 風は、二人の公主の短くなった髪を揺らせただけで、すぐに去った。
 ちりん、と陶器が何かに当たって音を奏でる。
 そのとき赫夜の胸を浸したのは哀しみではなく、怒りであった。
「………そう」
 彼女はこの戦でどれほどの人が死に、どれほどの人が平和を渇望しているのか知っている。貧しく、明日の糧にも心許無い民が、不安な毎日を送っているのか。そして、どれほどの人が、血を流していったのか。
 春陽は、何故そのようなことを言えるのか。恋ごときでたくさんの人々を見捨てることが出来るのか。
 赫夜は幼い頃から春陽に劣等感をもっていたことを思い出した。あれほど恵まれていたくせに。才能も地位にも恵まれて。何のために春陽は、国で望める最上の教育を受けたのか。
 国を裏切るためか。
 さまざまな感情が赫夜の中で暴れていた。幼い頃の嫉妬、劣等感、憧憬、愛しみ。父帝の死の報せ、紀丹宮での姉妹の別れ、母の亡骸、戦火。雄莱との会話、江洪の村の貧しさ、春陽を敬う兵、遜角という少年、雄莱に穿たれた矢。礼淨、絮台、螺緤王女の哀しみ、螺栖女王、戦の空しさ。
 戦は机上で語られるものではない。春陽は知っているのか。その哀しみを。その罪を。
 許せない、と初めて赫夜は思う。


 わたくしは、もはや春陽を許せない………!


 今、二人の公主は対峙していた。
 あっけなく絆は解けた。憎しみが生まれる予感を、赫夜は胸に抱いた。そしてそれが外れることはないだろう。
 もう赫夜は心の中では春陽との姉妹の縁を切っている。赫夜が一応春陽を諭すのは自分のためでなく、緋楽のために外ならない。
「貴女が王太子を愛してしまったのは仕方がないのかもしれない。意志ではどうしようもないこともあるでしょうから。けれど、それは想いだけに止めておきなさい。何故、姉さまたちと争おうと考えるのです」
 赫夜は母・壺帛賢妃の烈しい陽龍への恋慕を目の当たりにして育ったから、実感としては分からずとも、恋とはそういうものだと知っている。だが、そう言う自分の声が冷たくなるのは如何ともしがたい。
「無理ですね」
 にべもなく春陽は切り捨てた。そうすることで赫夜の妥協を受け入れるのを拒む。――二度と、赫夜が春陽を許さぬように。
 赫夜は春陽の台詞に含まれる、偽りの片鱗を赫夜は見抜くことが出来なかった。その愛情をも。
 赫夜でさえ見抜けぬほどに春陽は心を決めてしまっている。
 もし見抜いたところで、赫夜は春陽を許しはしなかっただろう。確かに春陽は国を裏切ったのだから。それほどに赫夜は国を愛しているのだから。
「もう二度とお会いしません」
 春陽は言った。
 ――春陽は堕ちてしまったのだ、と赫夜は思った。



*   *   *



 四日後、赫夜に追い打ちを掛けるように、斉城にいる吉孔明皇子からの書簡が届く。先日朝楚が送った手紙に対する返答である。
 曰く、「我らは公主の誇り高さを知る。公主の望みは生き恥に非ず、殉国を至上とするだろう」と。
 つまり切り捨てられたのだ。赫夜は陽香という国に。
 正しい判断だった。赫夜ひとりのために、陽香が不利な状況になってしまうわけにはならない。陽香は、常に背水の陣を引いているのと同じなのだ。少しでも気を緩めれば、二度と反乱など起こせないように、完膚無きまでに叩きのめされるだろう。
 もし吉孔明や緋楽が赫夜を助け出そうとしたのなら、きっと赫夜は自分自身を許せまい。だから、彼女がこの報せを聞いたとき安堵したのは、真実だった。
 私は、公主らしく死のう――春陽とわたくしは違う。
 だが、赫夜の覚悟を打ち崩したのは、礼淨だった。
「このまま死んでしまってもよろしいのか」
「………っ」
 赫夜は息を飲んだ。
 それは赫夜が無意識に自問自答していた言葉と同じだったからだ。
 ――――果たして、このまま死んでしまってもいいのか、と。
(いいえ、死にたくない!)
 自覚した瞬間、赫夜は全身で拒否していた。
 身体中が、生きたいと叫んでいる。
 何も成さぬまま、何も得ないまま、このまま死に絶えたくない。
 このまま死んでいいはずがない!
 殊の外強い生への執着に、赫夜は驚きを禁じ得なかった。
 自分は国に殉じることに抵抗を持っていなかったはずだ。その上、自分の非力さを知り、春陽にも裏切られ、生きていても誰の益にもならない。もともと望まれて生まれたわけでもないのだから、死ぬときぐらい人の役に立てればいいのだ、とも思っていた。
 なのに、いつの間に自分の精神はこんなにもしぶとくなっていたのか。
 何が、自分にそうさせているのか見当もつかない。ただ、烈しい嵐がこの身を荒れ狂っているのだ。このまま死んではならぬ、と。
 母親が死んだとき、そこに留まれば死あるのみと知りながら、わたくしは動くことが出来なかった。雄莱たち兵士に担ぎ出されてなんとか宮殿の脱出を果たしたけれど、そこに生き抜こうという己の意思はなかった。
 自分の中にこれほどに勁い思いがあることを、赫夜は今の今まで知らなかった。思えば、春陽に裏切られたと知ったときも、わたくしは絶望しなかった。以前の自分なら考えられない。
 諦めることしか知らなかった赫夜は、きっともう存在しないのだ。
 想いを馳せるのは、あの無骨な兵士。
 きっとわたくしに生き方を教えてくれたのは、彼。
 土壇場にきてわたくしは、諦めることが出来なかった。
 赫夜は静かに振り返り、礼淨を見つめた。その姿は、赫夜があきらかに根っからの貴人であることを知らしめていた。彼女は華奢で品が良く、居丈高でもないというのに妙な威圧感を持ち得ていた。
「礼淨」
 岨礼淨は重たい物で頭部を殴られたかのように、脳が芯から痺れた。赫夜の眼差しに、身体が震る。それが、歓喜という感情だと理解するのにはしばし時間がかかった。
 礼淨は何故自分が赫夜公主に拘ったのかが、分かった気がした。自分たちの野望に役に立つ、というのは建前だ。それだけではない。きっと自分は赫夜のこの姿を見たかったのだ。
「わたくしを、連れて行って」
 楔から解き放たれたかのように、赫夜は慎重さを手放した。
 わたくしは生きなければならない。
 何故なら、わたくし自身が生きたいと望むから………!
 誰かのために生きるのではない。誰かのために死ぬのでもない。わたくし自身のために、陽香を護るのだ。
 わたくしは戦いたいのだ、自分のために。ここで死んでは、ただ足手まといになっただけ。だからわたくしは生きなければならない。
「いいのですか。その望みのためにどんな代償を払っても」
「どんなことでも構わない。わたくしは貴方を信じたわ。何度も念を押す貴方に、誠実を見たわ」
 彼を信じることに決めたのは、咄嗟の判断だった。だが赫夜は自分の選択が間違っていないだろうと、ほぼ確信していた。
「………後悔なさらぬよう」
 赫夜は、ついに礼淨の手を取ったのだ。
 その日の夕暮れ、赫夜の姿が紀丹宮から消える。





    落日の宮が栄屯を行き交う人々の目を奪う
    赫い夜
    それは午の終わりではなく、夜の始まり








(赫夜の章・了)








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