序章





 陽香の国は滅びようとしていた。
 連綿に栄えると思われた泰平の国は最早なく、蹂躙のときを待つばかりである。
 時刻はちょうど払暁を迎えたばかり。平生では誰もがまだ牀上にいるはずの今、かつて栄華を極めた都・栄屯は、不気味な緊張に覆われていた。あまりの急な戦火に、市井の人々の多くが都を脱出することも叶わず、息を顰めて敵国軍の辿り着くそのときを待っていた。
 四成大陸随一の大国であるこの国が他国に侵略されるなど、久しくないことだった。陽香が統べて永い異民族の断続的な反乱を除いては、少なくともこの二百年あまり、どれほどの昏帝を戴いたときでもその点においてこの国は安泰であった。
 それも本日限り。
 遥か海を越えた大陸からの侵略者はガクラータ王国という。四成大陸の諸国にとって馴染みの薄い国ではあったが、陽香とは先代皇帝・陽騎の御世から国交を僅かながら交わすようになっていた。
 両国の容易に決着のつかぬ攻防は数度にわたって繰り返されたが、決着がつくことはなかった。焦れたガクラータ王国が遂に驚愕すべき大軍を投入してきたのは今年の二月。これまでになく戦いは激しさを増したが、勝敗が決したのは早かった。二国の均衡を断ったのは、陽香の同盟国であり隣国である朝楚国の寝返りであった。
 数ある堅固な、もしくはそう信じていた砦が陥ち、幾つかの王領、数多の州県が降伏した。首を括った者多く、首を晒らされた者限りなし。
 国家の柱たる皇帝は既に斃れ、皇子の多くも父帝と同じくして死したか、今なお戦いに身を投じているかのどちらかで、現在皇宮で護られているのは、文官か後宮の女たちくらいである──もっとも、後宮においては、既に皇后が皇帝の崩御に殉じ、五妃のうちの貴妃と武妃もまた皇后に倣ったため、姿を見ることは最早ない。残された妃や嬪、宮女は状況を知る手段を持たず、ある者は自室にもり、ある者は身を寄せ合い、ただひたすら恐怖に耐えた。
 そんな中、嘆きから切り離された空間があった。緊張はあったものの、脅えはない。すでに覚悟を決めた者特有の冷たい穏やかさで包まれたその場所は、執務室であった。優美な天子の居城・紀丹宮にありながら武骨な印象の拭えぬ所である。まして今は、官吏たちが表情を堅くしてそこに詰めていた。
 少女が一人、上座に坐していた。
 身なりからして一目で貴人と分かるが、彼女の存在はあまりに周囲にそぐわない。しかしその場の誰一人それに異を唱える者はいなかった。ただ、戦地から赴いた使者を冷静に受け止めた少女に、複雑な思いを抱くのみである。
 第三公主・春陽(しゅんよう)。皇帝の末子であり皇后を母にする、新年に一六を数えたばかりの少女である。
 春陽公主に跪いた使者は第二皇子・吉孔明(きっこうめい)からのものである。報告の内容に、春陽公主ではなくむしろ使者の方が動揺し、顔面蒼白となっていた。
「わたくしが」
 小さな沈黙を破り春陽公主は口にした。その言葉の意味と声の密やかさに、男たちは息を詰めた。痛いまでの静寂が横たわる。
「第三公主春陽が赴きますと、吉孔明さまと敵軍に伝えなさい」
「────承りました」
 使者は深く頭を垂れた後、逃げ出すように退出した。
 間を置かず、春陽は二人の異母姉をここへ呼ぶよう、控えていた宦官に命じた。慌ただしく去った宦官たちの沓音を聞きながら目を伏せる。
 陽香の公主は三人。母親はすべて異なるものの、容貌は驚くほど酷似していた。濃い茶ともとれる黒髪は、まっすぐ踵まで流された類い希な艶やかさ。同色の瞳は常に凜とした緊張感を保ち、細くしなやかな肢体は軽やかに舞を踏む。第一公主は緋楽(ひらく)といって、第二皇子・吉孔明の同母妹であり泰武妃を母とする。第二公主赫夜(せきや)は壺帛(こはく)賢妃の娘である。
 しばらくして二人の異母姉が姿を現した。急いだらしく、細かな絹糸のような髪がほつれている。不安と緊張、そして焦りが交錯した瞳で緋楽公主がまず問うた。
「春陽。何がありました」
 憂いを隠して春陽は答えた。
「最早、降伏以外の道はありませぬ。──敵軍はすぐそこまで」
「!」
 緋楽と赫夜のそれぞれに、束の間衝撃が走った。官吏たちはそれを正視出来ず、顔を背ける。降伏の代償を知っている故に。
「そう……。とうとう」
 驚愕の声を飲み込み、緋楽は胸を押さえた。詳しく理由を聞こうとは思わなかった。春陽が言うのならば、事実この国は終わるのだろう。
 国を喪い、民を喪い、誇りと倖せを喪うときが来たのだ。
「太子はその首を以て、降伏となされた。しかしガクラータは……」
 皇太子・陽征は己を討たせて屈した。見事な最期であったという。
「……足りぬ、と」
「では、何を以て降伏を証せと?」
 胸の辺りがざわめいて、緋楽は大きく息を吸い込んだ。皇帝と皇太子の命以外に、今すぐガクラータが要求すべき価値のあるものがこの国にあるか。財宝ならば支配が完全となった後に要求すればいいはずだ。
「公主のいずれかひとりを人質として献上せよ――との命にございます」
「皇子ではなく、わたくしたちを……?」
「ええ」
 人質という言葉が建前であることは春陽とて先刻承知である。真の意味で人質を欲すのならば何故皇太子を殺した。何故求めるのが公主か。その意図は明白であった。陽香の公主は四成大陸では美貌に名高く、ガクラータにもその声は響いていた。
「よくも奴らぬけぬけと……!」
 豪胆な気性そのままの眦を吊り上げる緋楽に向かい、一六の少女とは思えぬ分別で、きっぱりと告げた。
「緋楽姉さまは櫂領へ、赫夜姉さまは斉領へ落ちのびてください。手筈はすでに」
 そう告げる春陽の瞳の色に気づき、緋楽の胸のざわめきは大きくなる。嫌な予感をさえぎるように、彼女は慌てて言った。
「わたくしが参りましょう」
 長姉の申し出に対し、春陽は静かに、しかし確固たる態度で否と首を振る。
「わたくしはもう返答してしまいました」
「春陽っ」
「わたくしがかの国へ赴きますと、すでに吉孔明兄さまへ申し上げました」
「────貴女は……っ!」
 激昂した緋楽の、春陽の頬を打つ音が鋭く響く。怒りに打ち震えた異母姉を春陽はただ黙して見つめた。
 春陽とて行きたくなどない。しかし姉たちが自分の代わりに行くのを見るのは更に嫌だった。そして、誰かは行かねばならぬのだ。
 これ以上戦いを続けても、いたずらに民の命を奪うだけだ。最早陽香が勝利することは万に一つもなく、まして逸った兵士が公主を連れ出す為に血眼で宮殿に侵入してくるとなると、後宮の無力な女たちは為す術もない。
(そうなればどれほどの者が傷付き、命を落とすのであろう)
 だから彼女は決めたのだ、自分が行くことを。
「何も貴女でなくともよいでしょう」
 今まで口を挟むことのなかった第二公主赫夜が初めて声を発した。
「赫夜姉さま」
「何故、国の名を戴いた貴女が行かねばならぬのです。陽香の再起を図るつもりはないのですか」
「もちろん、あります。ですが……」
「では何故? 生き残りの兵を一つにし、その指導者になるのはわたくしや緋楽姉さまではありません――貴女でしょう? 勿論、他の皇子方が旗頭になられるというのなら、それに越したことはありませんが、あの方たちは恐らく………。ですからわたくしが参ります」
 儚さと苛烈さとの両方を持つのが赫夜だった。普段はひっそりと慎ましやかにしている異母姉が非常に激情家であり、おとなしく自分を行かせてくれぬことは春陽も重々承知していた。
 春陽は固唾を呑んで成り行きを見守っていた男たちの方を向いた。
「貴方たちは席を外しなさい」
 唐突に退出を命じた春陽に、姉公主たちだけでなく当の官吏や宦官たちも顔を見合わせたが、この一幕をつらく感じていた彼らはこれ幸いとばかりに速やかに退出した。
「春陽?」
 人の気配が去った後、戸惑いがちに第二公主赫夜が問うと、春陽は一呼吸おいた後、鋭く言い放った。
「わたくしは、慰み者になるためにかの国へ参るわけではありません」
 春陽の言葉に、赫夜は瞠目し、緋楽は息を飲んだ。二人はようやく異母妹の成そうということを知ったのだった。
「きっとわたくしは勝利品として、王か王子の閨へ送られるでしょう。上手く立ち回れば寵が与えられるやもしれません。そして、時が至れば――殺します」
 驚愕の面持ちで凝視してくる姉たちに、しかし春陽はそれ以上を言わない。凍りついた空気のまま、沈黙が落ちた。
 王族の暗殺。それを画策するのならば、確かに春陽でなければならない。公主としてごく当たり前の教育しか受けておらず、かの国の言葉さえ話せない緋楽と赫夜には、暗殺など到底為し得ぬことであった。
 逆に言えば、春陽ならば可能かもしれない。同じ公主と言えども、春陽と彼女たちとでは、与えられた教育も皇宮での立場もあまりに違った。
 緋楽と赫夜は、春陽が全てにおいて優れていたことを初めて悔いた。

 春陽の母親は皇后である。名を青春耶(せい・しゅんや)。春耶の実家である青一族は良家であったが、新皇帝即位の際の政変に敗れ、零落しようとしていた。そんな彼女が皇后になり得たのは一重に皇帝・陽龍の寵愛故である。
 皇帝の愛を一身に浴びながら、しかし彼女はなかなか懐妊せず、皇太子位は長らく空位となった。とうとう皇后が懐妊したのは十年後のことである。国を憂える者は、皇后の子供が男女どちらであっても、皇太子を定めるようにと皇帝へ奏上した。つまり、皇后の子供が男児であればよし、そうでなければ貴妃の生んだ征皇子を皇太子へ擁立するものであり、皇帝はこれを請けた。
 果たして、生まれた御子は女児であった。自動的に皇太子位は征皇子のものとなり、名を陽征と改めた。――これだけならば何も問題はなかった。官吏たちは兎にも角にも、ようやく皇太子が立ったことに安堵の息を吐いたのだ。
 しかし皇帝は、立太子とともに、驚くべき宣旨を下した。皇后の生んだ公主に「春陽」という名をつけたのである。
 国名の字であり、至尊の証しでもある『陽』の文字を名に冠することが許されるのは、皇帝と皇太子、そして上皇だけのはずである。春陽はその初めての例外となったのだ。
 春陽への特別な扱いは、名だけではなかった。皇帝は不可解にも、公主である春陽にも皇太子並の教育を施したのである。
 公主としての教養である舞踊・詩楽・作法はもちろんのこと、語学、史学、地理学、戦術戦略や武道、数学、天文学、他国における神学。そして一般には明らかにされなかったものの帝王学をも春陽は修めた。多岐にわたるそれらを、春陽は豊かな土地が水を吸い込むように習得した。
 春陽は名に恥じない聡明な少女として成長し、それこそが周囲の危惧を誘い、民は皇帝がいずれ春陽を女帝に据えるつもりではないかと当惑した。そのため、皇太子・陽征と春陽の関係は複雑にならざるを得なかった。彼女は陽征を擁する者に命を狙われたこともあった。
 皇帝は意味もなく、ただ寵愛故に春陽を教育したのか。それとも何か思惑があってのことか。緋楽は常々考えていたことだった。父帝の意図は奈辺にあるのか。だがそれを知り得ぬ今となっては、父帝が春陽を教育さえしなければと恨みがましく思う。
「貴女はそれでいいの……っ!」
 血を吐くような思いで緋楽は言い募る。
 ──春陽を思い止どまらせることは出来ぬだろう。
 脳の裡の醒めた部分では分かっているのだ。しかし言わずにはおれない。
 身代わりになれたなら良かったのに、自分ではそれも叶わない。この国を建て直すためには、確かに出来るすべての手をうつ必要があった。たとえそれが愛しい異母妹の命を散らせることになっても。
(ただの緋楽である前に、わたくしは皇族なのだのだから。)
 言葉を喪い、緋楽は奥歯を噛締めた。
 赫夜もまた分かっているのだろう。彼女は先ほどから滂沱の涙を流し、こみ上げる嗚咽を堪えていた。
 春陽はそんな異母姉たちの嘆きを切なく受け止めたが、一旦瞳を閉じて胸の中の嵐をやり過ごすと、振り切るように目を開いた。
「緋楽姉さま。確かなことではなくて申し訳無いのですが、吉孔明兄さまだけならば、お逃し出来るやもしれません。その際は櫂領へお隠れ申し上げるよう手配いたしました」
「兄上が……?」
 緋楽は呟いた。吉孔明の同母の妹である緋楽は、諦めていた兄の命が助かるかもしれないと知り、呆然としたようだった。
「ええ。兄さまだけです。それで精一杯でした」
 僅かに悔しさを滲ませて、春陽は頷いた。
 そう何人もガクラータを謀ることは出来ない。こんなとき優先されるべき皇太子はこの世の人でない。となれば残る皇子の中で、母親の地位が武妃と一番高く、また第二皇子でもある吉孔明が一番に優先された。
 ――その身に課せられた責務により、この場の誰もが、他の皇子の死を予想し、切り捨てることを選んでしまっている。
「わかったわ」
 緋楽は諦めの吐息を漏らした。自分には一足先に櫂領へ行き、兄を迎え入れて補佐する仕事が出来てしまった。
「わたくしは櫂城に行かねばならないのね?」
「ええ。どうか陽香の再建を」
「わたくしも。斉城に必ずや辿ち着き、陽香を取り戻しますわ……!」
 泣くだけであった赫夜もとうとう別れを受け入れ、そう宣言する。
 綺麗事や個人的感情を抱いたままでは陽香を守れない。そんなことは初めから分かっていた。否やは言えない。しかしそれをあっさり認めるには長女の緋楽でさえ、若すぎた。
 しばしの間、姉妹たちは見つめあい、別れを惜しんだ。その沈黙を破ったのは、執務室の門扉の外からのか弱い女性の声だった。
『春陽公主……っ!』
「お母様?」
 赫夜は突然の母の声に慌てて彼女を招きいれた。女性は赫夜の母親であり、後宮においては賢妃である、壺帛桂姫だった。
 壺帛賢妃・桂姫は宮女を伴って入室すると、ちらりとだけ赫夜を見遣った。しかし母子の視線が交差したのは一瞬のことだけで、彼女はすぐに目を逸らせると、春陽に額ずいた。
「ガクラータの使者がやってまいりました。現在、一時的に戦いは中断されていますが、いますぐ公主がお出でにならない場合には再開するとの宣告です」
「あぁ……っ!」
それを聞くなり慟哭した赫夜に、春陽は静かに微笑むしかなかった。
「時間、ですね」
 両腕を胸に交差して添え、軽くお辞儀する。ついで、緋楽、赫夜の順にしきたりに沿って抱き締めた。永遠の別れを意味する儀式。緋楽は春陽を抱き締め返し、赫夜は嗚咽のあまり果たせなかった。
 春陽にしても平静でいるのはそれが限界だった。

「───お元気で……っ!」

 叫ぶように言うと、ばっと身を翻した。
「しゅんよぉっっ!」
 その背中に赫夜の絶叫が追い縋って響いたが、春陽はついに振り返ることはなかった。緋楽は妹のように泣き叫びたいのを耐える。引き留めたいという衝動も。彼女たちの妹は死ぬためにガクラータへ渡るのだ。
 絶望を抱いて、半ば呆然と立ち尽くした二人の公主に、賢妃は切迫した声で告げる。
「出立の準備が整っています。春陽公主に敵軍の気が逸れている今しか機会はありません。さあ早く!」
 促されて、やっと公主たちは壺帛賢妃に続いた。
 沈黙のままに一行は長い回廊を歩く。
 外は血に染まった空気が満ち、怒号のような悲鳴が絶えないであろうに、この宮殿はあくまで変わりのない静寂があった。今ならどれほど、護られていたかが分かる。どれほど安穏と日々を過ごしていたか。
 緋楽の胸を虚脱感が突いた。
 何を犠牲にしても生き延びなくてはならない。異母とはいえ兄弟に違いない皇子たちの命や、春陽の明るい未来や、大勢の民人をすでに犠牲にしてしまっているのだから。もう覚悟を決めている。ただ、やりきれないだけだ。
「ここです」
 壺帛賢妃は一見何もない場所で急に立ち止まった。その先の壁には肖像画が掛けられていた。突いて来た宦官たちが、壺帛賢妃に指示されて取り外し、画で隠れていた部分の壁の漆喰を、鶴嘴などで破り始めた。壁の奥は空洞になっているようだ。
「この壁の奥には、都の外に通じる隠し道があります。出口には護衛の者が待っています。春陽公主が信用出来る者たちだとおっしゃっていました。詳しい話は彼らに尋ねて下さい、と」
「お母さまは共に来てくださらないのですか」
 分かり切ったことだったが、心細くなって赫夜は思わず問うた。母は赫夜の心の拠所だった。
 壺帛賢妃が皇帝の戦死に殉じなかったのは、寵妃ではなかったからだ。他のどの妃よりも皇帝を愛したのは賢妃に違いなかったが、皇帝は彼女に寵を与えず、彼女は共に逝くことを許されなかった。それは壺帛賢妃には不幸であったが、赫夜にとっては僥倖であった。自分が母親の死に耐えられるとは到底思えなかったからである。
「わたくしはここに残ります。貴女の足手まといになるだけですから。──大丈夫です。わたくしたちの命を奪っても、彼の国は何の得もしないでしょうから」
 それはそうなのかもしれない。しかし落城の後の後宮は踏みにじられるだろう。抵抗すれば殺されるかもしれない。そしてその屈辱や哀しみ、絶望や恐怖は、殺されないにしても、心のか弱い者ならば容易く自らを死に追いやってしまう。
 だが賢妃はそれを承知の上で、付いては行かぬと言っているのだ。止められない。
「……何があっても生きていて下さい。国を奪い返すまで──いいえ、状況が落ち着けばすぐにでも迎えに行きますから!」
 今にも消えて行きそうに線の細い母親に、娘は必死に言い募る。
「ええ」
 賢妃は場違いな程、優しく微笑んだ。赫夜が思わず絶句しているうちに、壁に穴があいた。少しの明かりもない深い闇がその奥に続き、通路をなしている。赫夜たちもこのようなところに抜け道があることを今日まで知らなかった。おそらく皇帝の他には、皇太子と春陽のみが知っていたのだろう。
「赫夜、早く」
 先に入った緋楽がせかしたので、後ろ髪を引かれながらも赫夜は従った。
 足が震える――なんて情けない。
 春陽の母・青皇后春耶も、緋楽の母・泰武妃桃珠も殉死したが、彼女たちはけして取り乱さなかった。わたくしのお母さまは生きて居るのに、いつまでも未練たらしくしてはいけない、と赫夜は自分を叱咤した。
 自分も強くならねば。
「ご無事で」
 それが母・壺帛賢妃桂姫との最後の言葉だった。
 再び通路は肖像画によって塞がれる。



 しばらくじめついた暗闇中、狭い通路を歩いていた二人だったが、赫夜の胸に突然悪い予感がよぎった。
「緋楽姉さま……」
「何です」
 赫夜の思い詰めた声に、速足で先を行っていた緋楽は振り返った。少しでも早く通路を抜けなければならないのに、どうして赫夜は立ち止まったのだろう──?
「嫌な予感がするのです」
 こういうときの赫夜の直感は当たることが多い。それは、ただの勘の領域を超え、無視できない確率で、先々のことを中ててみせることを知っていた緋楽は、早く脱出せねばと逸る気持ちをなんとか宥めて、立ち止まった。
「嫌な予感?」
 問い返した緋楽へ、赫夜は頷いた。
 ――ご無事で。
 よくよく考えてみると、母の声は妙に冷静で、微笑みは優しすぎて、赫夜は胸騒ぎしてならなかった。常の彼女ならば、泣き崩れるなりしただろうに。
 あの人はわたくしと同じで、そんなに心が強い人ではない。
(まさか─── ……っ)
 赫夜の脳裏に閃くものがあった。昏いその予感は確信となって、彼女を急き立てる。
「すぐ戻ります!」
 赫夜は緋楽の返事を待たず、背を向けてもと来た道を駆け戻ったが、すぐに緋楽も追いかけてくる。
「待ちなさい!」
 入り口に着き、赫夜が裏から必死に肖像画を外そうとしているうちに、緋楽は完全に妹に追いついた。行動を遮られて、赫夜は興奮の余り我を忘れて、叫ぶように緋楽に訴えた。
「止めないで、姉さま。お母さまが、お母さまが……っ!」
「賢妃さまがどうなさったの」
「お母さまがいなくなってしまう……っ!」
 緋楽は赫夜が壺帛賢妃の身を案じていることを理解したが、かっとなって怒鳴りつけた。
「わたくしたちが、今まで誰も犠牲にしていないでも思っているのですか。──何を今更……っ」
 多くの者を犠牲にして、自分たちだけ逃れようとしているのに、自分の母親のことだけを特別扱いするのか。
 緋楽の声が聞こえたのだろう。画布のつけ直しを終えていなかったらしく、宦官の一人が外の回廊から驚きの声を上げた。
『殿下っ!? まだいらしゃったのですか!?』
「ええ、そうよ。ここから出して頂戴!」
 我が意を得たりとばかりに赫夜は言ったが、『しかし……っ』と宦官の返事は煮え切らない。赫夜は苛々して、今度は命令口調で叫んだ。
「──出しなさい!」
 母親のことだけに全てを捕らわれてしまった異母妹に、緋楽はついに説得を諦めた。一生母親に会えなくなるかもしれない赫夜を止めるだけの言葉を、緋楽は持たなかったし、実際のところ説得の時間すら惜しかった。
「──分かりました。好きなようにしなさい。わたくしは先に都を抜ける」
 緋楽の言葉に我に返り、悄然と赫夜は詫びた。
「申し訳ございません、姉さま……っ!」
 謝りはするが、意志を翻すつもりもない。
「それでも必ず逃げるのですよ」
 緋楽は念を押し、赫夜が回廊に出るのを待たず、先に進んだ。心配は残ったが、振り返らない。春陽がそうしたように、緋楽は平穏の日々への未練を持つまいと、けして振り返らない。赫夜は振り返ってしまった、ただそれだけのことだ。
 緋楽は歩くのを止めて、走りだした。
 自分だけは確実に逃げ延びるために。



 隠し通路から出て回廊に降り立つと、赫夜はまだ戸惑っている宦官の一人を捕まえて、賢妃の居場所を問うた。始めは、教えられない、早く脱出しろ、との一点張りだった若い宦官も、その剣幕についに音を上げた。壺帛賢妃は自室に戻ったという。
 赫夜は駆けた。
 走るのに向かない沓を履いた足は痺れ、息が出来ぬほど喉が痛んでも、力の限り走る。全ての人間が、本来なら赫夜はここにいるはずがないと知っている訳ではなかったが、公主の中でも最も淑やかである赫夜の疾走する姿に、常ならないものを感じて、人々は引き留めようとした。しかし構わず赫夜はひたすらに後宮を目指した。
 正殿を離れ、梅林の中を通り過ぎた後、やっと広大な後宮が外界と通じる、唯一の大門に辿り着いた。常時待機しているはずの、門を開閉する小官がいなかったので、後を追って来た宦官に命じて開かせた。
 長じてからは暫く足を踏み入れていなかったものだから、独特の女臭さに赫夜は息が詰まりそうになった。否、それはここには女しかいないと認識しているからこそ、そう思うのかもしれないが。
 妃ともなれば、一つの館が与えられる。当然、賢妃たる壺帛桂姫は瀟洒な館に起居しており、赫夜は嬪位以下の女たちの部屋を素通りしようとして、しかし足を止めた。
 後宮内は鬱とし、薄暗い空気が漂っていた。彼女が立ち止まったのは、母親と親しくしていた女を見とめたからだ。彼女は他の女たちと固まり、何かを話し込んでいて、赫夜の姿に気づかなかった。
「修儀さま」
 声を掛けた。修儀とは名前ではなく位である。
 陽香の後宮は皇后を頂点とし、五人の妃(貴・武・徳・淑・賢)があり、その下には九人の嬪がいる。修儀とは嬪位の一つだった。
「公主さま」
 はっと彼女は顔を上げ、赫夜だと知るや否や、わっと泣き出した。
「どうしたの」
「賢妃さまが……っ!」
 赫夜の背中が泡立ち、皆まで聞かずに再び駆け出した。
 幾つもある、さまざまな花木と名を持つ庭園を抜け、まさしく壺帛賢妃の朱金に塗り立てられた館を目にしたときは、赫夜はすでに華奢な身体にある全ての力を使い果たしていた。
 空はすっかりと明るくなり、朝日が美しく栄屯と紀丹宮を照らしていた。
 赫夜は行きを落ち着かせようと努力しつつ、賢妃館の門扉に手を掛けた。


「母さま……?」
 渇いた声。
それは内に籠もって、空気を撫ぜただけに終わった。
 横たわる母親を探し当てた瞳は、瞬くことを忘れた。
 信ずることが出来ず、呆然と立ち尽くす。
「触らないで」
 ひび割れた言葉が赫夜の喉を突く。
 宦官たちが賢妃の身体を抱き起こしていた。
「公主っ」
「おお、どうかお目になさらぬよう!」
 公主の視界から賢妃を遮らせた宦官に、赫夜は荒々しく怒した。
「触るなと言っているでしょう!」
 あわてて宦官らは貴人の身体から身を離した。
 賢妃の肢体に絡み付く、薄いものを幾重にも重ねた美しい裳は朱に染まり、足元には濡れそばった懐剣が無造作に転がっていた。
 赫夜はゆっくりと歩み寄った。
「約束をお破りになるつもりですか………」
 細心の注意で抱き寄せたというのに、母の首はかくんとのけ反った。
 まだ、暖かい、のに。
 赫夜は賢妃の温もりを強烈に意識させられた。母の手は、身体は、こんなに暖かであっただろうか。赫夜は冷たい賢妃の手しか知らない。わたくしは知らない。知らないまま、もはや母はこと切れて。
「どうして」
 どうして死ぬことが出来たの。
 愛されなかったのに……たった一度さえも。
 どうしてそんな恋に殉じたの。
 どうして皆はわたくしの前から去って行くのだろうか。
 ───これが国が滅びるということか?


 そうして悲鳴に似た絶叫が、賢妃館に響く。
 禍々しい余韻とともに。


*     *     *



 その日の昼、陽香がガクラータ王国に全面降伏という報が正式に発布された。
 皇帝・陽龍及び皇太子・陽征が戦死し、生き残った皇子は七人のうち四人であった。そのうち三名が投降し、第二皇子・吉孔明は自害したとされる。後日、それらしき死体と、投降した皇子たちの証言により、まず間違いないと判断された。
 第三公主・春陽はガクラータ王国の捕らわれの身となった。
 数日後、三名の皇子及び直系に近い皇族の男たちが、紀丹宮にて極刑に処せられた。このとき春陽公主はガクラータ国王のもと、刑の立ち合いを余儀なくされたが、斬首の瞬間にも顔色一つ変えなかったという。
 ガクラータ王国は国王の凱旋のあと、ソヴァンス公を陽香総督として派遣し、陽香には皇族の血が辛うじて流れている文官・那尖を皇帝に立たせた。無論、傀儡同然の君主であり、事実上陽香はガクラータ王国の属国となった。
 ただ、ガクラータ王国は反乱の恐れを持つ、第一公主と第二公主を捜し出すことはまだ出来ていない。
 







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