[二・今夏の隙間]
それは晩夏のある日。
蝉時雨が止んだとき。
それは冬のあの日。
蝉の死骸が雪に埋もれたとき。
昼時を少し過ぎた頃だった。
扉のノブに鍵を差し込む音がした。そのとき僕は文庫本を読んでいたので、区切れの良いところまで文章を目で追ってから、扉に視線をやる。
入室者は僕に気がつくと露骨に顔を顰めた。まだ充分に夏休みが残っている今、自分より先に僕が入寮しているとは思ってなかったようだ。
僕より遅れること二日、同室者の神谷健太郎が寮に帰って来たのだった。扉を開けた後に入ってくのがワンテンポ遅れたのは、荷物が重かったかららしい。小柄な体躯に不似合いなボストンバックを引きずっている。
ただいまの言葉もなく、神谷は無言でボストンバックを自分のベッドに置くと、荷物を広げ片付け始めた。その硬い横顔は、教室で級友たちとともにいるときの朗らかな表情と重ならない。彼は僕を前にしているときだけ、棘を出した。
僕は何となく落ち着かなくて、頭の中に入らないくせに本を読んでいる振りをしていた。
早く作業を終えて、友人の所でも行ってくれないだろうか。
ぼんやり僕が思うと、漆黒の硬質な前髪に隠された、気の強そうな彼の眉が僕の胸中の声を聞いていたようなタイミングでぴくんと跳ねた。なんだか決まりが悪い。――悪意は好意より相手に通じ易いって言うけれど。
入学してから四ヶ月も経つのに、ふたりきりの状態に未だ慣れない。同室者なのに、まるで彼がいることの方が非日常的であるかのように感じられる。普通、同室者が友人でなくとも、何処か相手の存在に馴染んだりするものだろう。なのに僕と彼はいつまでも他人なのだ。
神谷は片付けを終えると、やはり無言で出ていった。こんな部屋には居てられないとばかりに。
途端に、僕は安堵の吐息をついた。強張った身体からゆっくりと力が抜けていくのが分かる。
人がいることに緊張しているのだ。いまだに……今になっても。
慣れることなどないのだろう。
僕はずっと待っている。彼が僕を嫌うことに飽いて、関心を失うときを。
好意も憎しみも欲しくはなかった。どんな感情も向けて欲しくなかった。
神谷が帰って来たのは消灯ぎりぎりだった。こちらの顔に一暼もくれず、パジャマに着替える。そしてベッドに潜り込みかけ、ふとやめた。同じく寝る準備をしていたこちらの方を向き、けれど僕とは目を合わせずに、
「小早川」
驚いたことに話しかけてきた。僕は正直、面倒臭く感じたが無言で彼の言葉を待った。
「俺、明日から新学期まで山口の部屋で寝るから」
たった今思いついたかのように神谷は言った。
ひょっとすると事実そうのかもしれない。僕に当てつけるために。
「山口の同室の奴は?」
「ぎりぎりまで帰って来ない」
「僕は別にいいよ」
僕は頷いて、こう付け足した。
「反対する理由もないし」
唐突に神谷の身体が強ばった。逸らしていた瞳が僕の方を向く。彼は始めは怒ったような顔をして、それから泣きそうに崩れた。寄せられた眉間の皺の訳を察する前に彼は言った。
「俺、前から言おうと思ってたけど、そういう喋り方やめてくれ!──気に障る」
彼が僕を嫌うのは前々からだが、このようにぶつけてくるのは初めてだったので、どうすればよいのか分からなかった。
「それもだ。黙りこくって、そんな目で冷静に見るな。馬鹿にしてるのか」
気の強い神谷の瞳からぽろっと涙が零れて、僕は焦った。でもやはり掛ける言葉を持たなず結局黙ったままだった。──否、初めから言葉を探しもしていなかった。弁解するつもりもないのに何を言えというのだ。
何も言い換えそうとしない僕に神谷は更なる言葉を浴びせかけようとして――しかし激情のあまり言葉が出てこなかったのだろう。絶句した。
濡れた瞳で僕を睨み、神谷は部屋を飛び出した。追うべきであろうことは分かっていながら、僕は追わない。
そのまま何事もなかったかのように一人ベッドに入った僕は、山口という生徒の部屋に居るだろう神谷を想ったが、自分が原因のくせに心配するのは狡いことだから、すぐにやめた。僕にそんな権利はないのだ。
(また、聞いてしまった)
人ひとりの過去が重い。
ぶつけられた想いと真実が痛い。
明かりを消した部屋は静かだった。開け放した窓の外から夏の虫が昼間とはまた違った風情で鳴き、気怠い暑さの中で僕はそれを聞いた。酷く疲れているのに寝付けないのは、暑さのせいではない。
これまでなんとかやり過ごしてきたのに、どうして神谷は今日に限って突っ掛かってきたのか。その答えを知っている。それは僕自身が酷く殺伐な気分になっているから。
何故なら僕は一昨日、翔に再会してしまった。最後の聖域とさえ言えた翔に。
再会さえしなければ、少なくとも翔の心の中で僕は友人でいられた。自ら翔との友情に鋏を入れるような真似をせずに済んだのだ。
身勝手なことだと分かっている。だが僕は曖昧なままにしていたかった。彼との思い出こそが、僕には唯一美しいものだった。
もう、手は届かない。
ふと僕は去年の今頃に思いを馳せる。何もかもを包み隠さず翔に明かせた、かつての自分を思い出す。それはあまりに優しすぎて、痛みを覚える作業だった。
月明かりの空の下、公園で仲間たちと花火をしたあの日。
最後の線香花火でなんだか感傷的な気分になり、同じ高校を受ける翔たちには全員で合格することを、そうでない奴らには卒業しても友人であることを約束した。
それは最後の倖せな記憶。
そして数日後、僕は僕でなくなった。
───堪え切れず、僕は枕に顔を押し付けて烏咽を漏らした。
あの瞳が僕を見る。
僕の異質さを嗅げ付けて。
僕がヘンなチカラを持つだなんて、全く知らないでいたくせに。
それなのに何故か僕が自分と違うモノだと気づいて、あんな目で僕を、見た。
───姉さん。
+ + +
翌朝、僕はノックで目を覚ました。
「……ん…」
半分寝惚けて、暫く返事出来ないでいると、扉の外から今度は声。
『小早川、寝てるのか?』
秋月の声だった。瞳を開けると突然の鋭い朝の光に目眩がした。カーテンの隙間からのそれはやけに攻撃的である。
ベッド脇の時計に目を走らせてみるとまだ八時。なんだよ、朝っぱらから。
本当は起き上がることさえ面倒だったが、秋月の問いに、答えるよりも行動で示すことにし、仕方なく立ち上がってドアを開いた。
「起きてる。何?」
出た声は寝起きにしては確りしたものだったと思うが、知らないうちに不機嫌な調子を含ませていたらしい。
「起こしてしまったみたいだな。悪い」
彼はまず謝った。
困ったような、それでいて押しの強い声音。秋月はもともとそういうところがある。声高に主張するわけでもないのに、彼の主張は大抵通るのだ。
「それで?」
言外にさっさと簡潔に言えと、ぶっきらぼうに促したのだが、気にする様子はなく秋月は「ここではちょっと……」と声を落として言った。
「込み入ったこと?」
「うん」
僕は無言で部屋に招き入れた。秋月と神谷がそれなりに仲が良かったことを思い出したからだ。
部屋にはソファーなんてものはないので、秋月はちょっと迷って友人の神谷のベッドに背中を丸めて腰掛けた。暑いのか、無意識にTシャツの胸元を掴んでぱたぱたとしていたので、僕は彼のために窓を閉め、クーラーのスイッチを入れた。
むっとした風が機械音と共に噴き出す。
落ちつきなく自分の柔らかな髪の毛に触れながら、僕を眺めていた秋月に、勉強机の椅子に座った僕は単刀直入に聞いた。
「で、用って神谷のこと?」
「ん。昨日の晩、健太郎何か怒鳴ってたろ。二階の奴らの殆どは聞こえたんじゃないかな。内容は分かんなかったけど、君とやりあったんじゃないかって噂になってる」
人の口に戸は立てられない。僕は内心でうんざりした。
不用意に人の関心は惹きたくない。ただじっと息を潜めることが出来さえすればよかったのに。
「秋月は神谷と話した?」
「ああ」
「何て?」
秋月は答えるのに少し逡巡したようだった。
「──部屋にはもう帰りたくないって」
「そうか」
「たぶん山口が宥めて部屋には帰らせるだろうけどな。……君と健太郎がこうまで折り合いがつかない理由が分からない。あいつ、いい奴だよ」
──分かってる、そんなこと。
僕とは違い、元来神谷は明るい性格であり、彼の周りでは笑いが絶えることがない。竹を割ったような性格とはああいうものを指すのだろう。こそこそ本人の見てない所で人の悪口を言ったりしないし、つまらないことで怒ったりもしない。そんなところが翔と似ていると僕は思っていた。
そんな彼が僕を嫌うのは、やっぱりそれなりの理由があるのだ。
「君の態度が偉そうだって健太郎は言っていたけど、でもそれだけで、あんなに嫌うものかな、普通」
他に理由あるんだろう、という目で僕を見る。そして無言の僕に念を押すようにしつこく言葉を重ねた。
「傷ついてた」
──分かってんだよ、傷ついていただなんて。彼が僕を嫌う理由だって言われずとも知ってる!
(だって僕にはそれが聞こえてしまった)
「結局何なんだ、原因は」
僕が答えないから、秋月はずばりと聞くことにしたようだ。今日はやけに積極的だ。僕が彼の言うことにきちんと反応しているからかもしれない。
僕は秋月を眇め見た。眼鏡の奥の目の色は見えない。しかしきっと厭な色を浮かべているだろうことは想像に難くなかった。
「神谷が僕を嫌う理由は何となく分かってる。でも本人の知らないところで言っていい話じゃない。君が直接神谷に聞けばいい」
何となく、ではない。本当は全て知っている。本来なら僕が知り得る筈のない神谷の心の傷痕や、僕への脅えも。それを秋月に言わないのも本当は神谷のためではなく自分のため。
「分かったよ。でも今まで一応何もなかったのに、昨日に限ってなんで揉めたんだ?」
──僕は自分の顔色が変わるのを自覚した。
+ + +
普段と違う彼に、僕は気づいていた。
小早川宗。
僕が彼に拘ってしまうのは、彼が普通ではないから。彼の静けさはたかだか高校生が持ち得るものではない。
けれど今日の彼は違った。
ゆらゆらと惑うような、瞳。
神谷健太郎は、彼にどんな影響を強いたのだろうか。僕の心は騒ぎ、彼の異変を見届けるため集中した。
僕は彼から何かしら反応を引き出そうと必死になった。そして言った。
『昨日に限ってなんで揉めたんだ?』
それに対して彼は口を開きかけ、
───唐突に。何の前触れもなく。
彼の顔が一瞬歪み、そして無表情になった。
硬い声が言葉を紡ぐ。
『君は神谷の心配をしてここに来たのか。それとも僕に対する下世話な好奇心を満たしに来たのか』
+ + +
「君は神谷の心配をしてここに来たのか。それとも僕に対する下世話な好奇心を満たしに来たのか」
秋月の顔がゆっくりと引攣った。
「え……?」
呟きは間延びする。
「帰ってくれ」
どうして、と彼の茶色の瞳は戸惑っていた。凍りついたように目を瞠り、機械的にこちらを見ていた。
彼自身、自覚していなかった本音だったのかもしれない。
「ご……めん」
束の間声を失っていた彼は、ようやく口を開いた。
途端に僕は後悔する。普段ならやり過ごせることだった。なのに、怒りが止まらない。ああ、どうして今日はこれ程に心が乱れるのか。
夏の暑さのせいで、脳が平衡感覚をなくしたのだろうか。
夏の匂いが僕をおかしくさせるのだろうか。
それでも彼が中学時代の友人だったなら、まだ僕は彼の本音に気づかぬ振りが出来たのかもしれない。人間は誰でもそんな一面を持っているものだし、まして中学時代の友人たちは、詮索する権利あるのだから。
けれど彼は友人ではない。僕の内面をただ好奇心のためだけに暴こうとする人間だ。
(どうしてお前何かに僕の過去なんかを語らなければならない)
「帰ってくれ!」
唐突に激情に駆られて僕は、殆ど叫んでいた。秋月はびくっと肩を震わせて、反射的に立ち上がった。秋月と僕に瞳がぶつかる。
幾つかの無言の時が過ぎ、そして物言いたげに何度も振り返り、けれど何も言えず部屋を去った。
ばたんと扉が閉まる音で、僕は糸の切れた繰り人形のように、床にへたりこんだ。
悔しくて悔しくて、情けなくて。
嫌だ。
もう嫌だ。
涙は昨日流しきって出て来なかった。疲れきった僕はただ脱力していて、指一本動かせない。
どうして
どうして僕だけが
「どうして僕だけがこんなっ……!」
戻る 続く
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