少女は愛を啼く





 少女は、愛を啼いた。


*     *     *



 窓ひとつない真四角の部屋だった。打ちっぱなしの壁がペンキで真っ白に塗られているだけの、殺風景な部屋。物置き部屋と大差なく、飾りと思しきものは存在しない。
 部屋に在るのは、中央に置かれた椅子と、一体の少女のみだった。
 少女は、その椅子に座らされている。
 腰の位置が浅いため、ほっそりとした足は投げ出され、ワンピースの裾も跳ね上がっている。今にも椅子からずり落ちそうな態であった。初めは行儀よく椅子に納まっていたのだが、購入者が現れぬまま日を経てゆくうちに、少しずつ崩れてこうなったのだ。
 つまり、少女は売れ残りだった。それも、致し方ないことではある。少女の容姿は、所謂美少女というものではない。
 まず印象深いのは、彼女の切れ上り気味の一重である。限りなく光を反射させない漆黒の眼球が感情なく嵌っている。髪は針金のように硬い直線であり、前は眉の上で揃えられ、後ろは顎のあたりで適当に切られていた。あまりに愛嬌に欠け、客の中には「人形の方がまし」といった言葉を吐き出した者もいる。
 ただ、肌だけは素晴らしかった。陶磁器のように滑らかな白。胸元に、朱色の墨を流した蓮の花の刺青があった。売り物の少女に予め刺青を彫るなど、通常はありえない。購入者が少女を手に入れた後で、少女に似合いの絵柄を彫らせることはあったものの。
 この少女を作った少女師には、独特の拘りがあったのだろう。売れる少女をつくるには、兎角、個性はあっても標準の美意識から逸脱せず、そこそこの存在感のある美少女を造形する必要がある。しかし、この少女に限らず、件の少女師がつくる少女たちは、総じて基準からかけ離れていた。売れ筋ではないと解っていて、それでもその少女師の作品を置くのは、彼のつくる少女たちに、他ならぬ少女屋自身が取り憑かれたからに他ならなかった。


 毎日、多くの人間が少女屋を訪ね、何人かの人間がこの少女の部屋に入った。しかし、少女を購入しようという人間は未だに現れなかった。
 少女が少女でいられるのは、あと三年程である。しかし、残り期間が少ない少女を買おうなどという奇特な客はいないから、月日がたつにつれて、少女の価格は下げるしかない。購入したときの値段を考えると、少女屋はこの少女を後一年で売ってしまわなければならなかった。
 尤も、少女屋はこの少女が売れなくともよいと内心思っていた。今回のこの少女に少女屋は心を奪われていた。店には他にも少女がいて、その中に、この少女と作り主を同じとする少女もあった。だが、この少女に対して抱く以上の執着は覚えない。もし売れなければ、自分が個人的に所有することにしよう。そう考えていた。
 勿論、いくら気に入ったとはいえ、売り物の少女を片っ端から己のものにしていては、商売は成り立たない。いくら趣味を生業にしているとはいえ、まずは生計を立てなければならないのだから。第一、少女を世話するのにもお金がかかる。少女は命のない人形と同じわけにはいかない。それでも、売らなかったのではなく、売れなかったのなら―――今回に限ってのことだが、そういった言い訳を自分に許すことができる。
 だが、もし少女を買いたいという客が現れたのなら、潔く少女を売るつもりだった。商品に溺れる訳にはいかない。だからこそ少女屋は、売り物である少女の世話をろくにせず放置していた。世話をすれば、少女を所有したいという気持ちが高まってしまうだろう。


 その日、少女屋のもとを訪れる客は少なかった。もともと少女屋というものは、扱っている「商品」が特殊であり、かつ高値であるため、そうそう千客万来になるような職種ではないのだ。その上、折からの雨がそれに拍車をかけている。店の前の煉瓦通りを歩く人影も疎らであった。
 少女屋は、午前中に済ませるべき仕事を終えると、後は安楽椅子に座って、薄っぺらい文庫本を開いた。貸し本屋から借りたその本は、その職にある者が読むには似つかわしくない通俗的な内容であった。彼は、少女屋にしては非常に珍しいことに、懐古趣味とは無縁で、退廃主義でもなく、俗っぽい人間に過ぎなかった。尤も、店の内装は客の好みを反映して、ゆったりとした雰囲気に仕上げてあったが。
 本を読み終えると、昼を過ぎていた。相変わらず、窓の外は雨雲がどんよりと垂れ込めており、音もなく静かに雨が煉瓦と窓硝子を叩いている。少女屋は、湿っぽいパンと朝の残りのスープで簡単に遅めの昼食を済ませる。再び別の本を読み始めたとき、漸く一人の客が店の門扉を開いた。
 恐る恐るといったふうに扉を開いたのは、プルシャンブルーの瞳をした、年の頃で言えば十代半ばほどの少年であった。整った容貌をしている。今は雨でべったりと首に張り付かせてはいるが、恐らくサラサラしているのだろう白金の髪は耳元できれいに切り揃えられている。
 その薔薇色の頬からして、良家の子弟のようであった。だが、少女屋にはすぐに少年がただの良家の子弟であるだけではなく、「人形師見習い」であることが知れた。というのも、少年はその形のよい左耳に、人形師たちの組合に所属しているという証であるピアスをしていたからである。
 いや、そのピアスがなかったとしても、少女屋は少年の身分を看破しただろう。少年は、他にもいくつか人形師に特徴的な外観要素を持っていた。例えば、少年が身に着けている篭手。それは、人形師たちがまるで己の皮膚の一部であるかのように作業中以外でも外そうとしないものと全く同じであった。あるいは、少年の肩。重い工具を扱うためであろう、僅かに下がっている。注意してよく見ると、少年の顎には漆のせいだと思われる火傷の痕もある。
「―――いらっしゃいませ」
 一瞬の間であったが、観察した分だけ対応が遅れた。その不自然な間に対して、ただでさえ躊躇いがちに扉を開いた少年は腰を引かせた。
「け、見学というか冷やかしは駄目なんでしょうか、この店は?」
 少女屋は、人形師を志す者という少年の立場に注目したのだが、どうやら少年の方は、自分の年齢を見咎められたと思ったらしい。
 確かに、このような少年が少女屋に足を踏み入れるのは久しくないことであった。少女を愛でるという「高尚」な、あるいは「酔狂」な趣味を持つには少年は若すぎたし、第一、少年の身では少女を購い、養うのは至難の業であろう。
「いえ、冷やかしでも結構ですよ、将来のお客様になっていただけるかもしれませんし、何より閑ですから」
 少女屋が愛想良く云うと、少年は安堵の息をついた。その素直な反応に、少女屋は苦笑する。人形師見習いの少年が、寄りにもよって、犬猿の仲とされる少女屋にやってきた理由など、彼には容易に想像できたからである。
 少女屋自身にも身に覚えがある。かつて、彼がこの少年と同じく人形師見習いだった頃。いや、彼らだけではなく、人形師あるいは少女師を志す少年たちの多くが一度は経験することだ。つまり、『生身の少女』と『少女を模した人形』のどちらが果たして素晴らしい存在なのか、という疑問である。そしてこの少年は、それを見極めにきたのだろう。
 現在の少女屋には、どちらが優れているかという議論は無意味だということが分かっている。両者は全く異なる存在で、比べることなど出来ない。片方が生あるものだとすれば、片方は生なきもの。片方が刹那だとすれば、片方は永遠。片方が不完全さゆえの美しさであるならば、片方は完璧さゆえの美しさを湛えている。どちらに美を見出すのかは、結局は選ぶ人間の感性による。
 少年は少女屋の中に入ると、首を傾げた。店の内装は彼の慣れ親しんでいる人形屋とそう変わらない。しかし、人形屋では中に入るなり、さまざまな人形が陳列されているのに対し、この店はたった一体でも少女の姿はない。そういえば、人形屋ではどこの店も、中の人形が店外からでも覗けるように、一枚硝子のショーウインドウが嵌め込まれていたが、少女屋でショーウインドウのある店を見たことがない。
「あの、少女たちは?」
「扉の先にある部屋に居ますよ」
 少年の疑問に、少女屋は扉を指し示した。
 『あります』ではなく『居ます』という言い回しに、少年は「少女」が人形とは違って確かに生きて呼吸している存在だということを思い出した。ともすれば、すぐに「少女」が人形と同じ物体なのだと勘違いしそうになる。―――少年のそういった感覚は、しかし異常というわけではない。少女は生き物であったが、同時に人為的に作り出されたものだというのも事実なのだから。
 少女を売り買いすることは、人身販売ではけっしてなかった。少女を購入するということに対する人々の感覚は、愛玩動物を買うことと、人形を買うこととの間くらいに位置していた。
「部屋、ですか?」
「少女たちには、一体に一部屋ずつ部屋が割り当てられています。うちの店には九部屋ありますから、最大九体の少女がいるということになりますね。今日は七体ですが。――さて、どうしましょう。少女を一体ずつここに連れてきてもいいですし、部屋もご覧になりたければ案内しますが」
 予想した通り、部屋も見たいと少年が言ったので、少女屋は奥の扉を開いた。中を覗き見た少年は、まず驚き訝った。そしてそれは人道的な意味での非難と、洗練されていないことへの侮蔑に変わり、最終的に優越感を少年に齎したようであった。
「人形屋とはかなり違うのですね。これじゃ“飼育小屋”か“監獄”だ、店主」
 少年がそう言ったのも無理のない話であった。扉の先に続いていたのは、まるで工場か何かのようにコンクリートが打ちっぱなしになった、無機的な廊下だったからである。成る程、左の壁に四つ、右に五つの扉がくっついてある。
「そうですね」
 あっさりと少女屋は少年の言葉に首肯した。
「確かにそう見えるでしょう」
 落ち着きぶりが少年の気に障った。
「実際は違うのだと?」
「少なくとも、当の少女たちはそう思ってはいないでしょう。生きているのですから心がないわけではありませんが、彼女たちは大抵のことに対して無関心で、感情が希薄なのです」
「――それは、耳にしたことがあります」
「彼女たちが持つ感情で、確たるものといえば、唯一、自分を所有する人間に対しての愛情ぐらいではないでしょうか―――マスターを愛することは、少女たちの生理です」
「へえ、ならば貴方は愛されているんですか」
「いや、私は所有者ではありませんよ。所有者、あるいはマスターと呼ぶべき人間は、少女を購い、名前をつけ、慈しんだ客のことであって私ではありません。―――さ、話すよりも見る方が早いでしょう」
 少女屋は、一番手前にあった扉を開けた。
「この部屋の少女は、当節一番人気の少女師が作った少女ですよ」
 中には、一体の少女が、椅子に座っていた。
 人形師見習いの少年は知らず知らず呟く。
「これが……」
 “少女”か。
 恐らく、十歳になるかならないか、の年齢だろう。濃く波打つ金髪のその少女は、店主と少年の姿を認めると、髪と同色の瞳を輝かせた。
「お客様だよ」
 少女屋の言葉に、少女はぱっと立ち上がった。少女の美しさを際立たせるための、平凡な白のワンピースがひらりと揺れて、少女の形のよい膝小僧を剥き出しにした。
「はじめましてっ」
 幼い少女らしく瑞々しさと無垢さを惜しげもなく晒しながら、一礼して少女は笑った。そうして、再びちょこんと椅子に座る様子までもが如何にも可愛らしい。妹を見るような思いで、思わず微笑ましくそれを眺めた少年であったが、しかしこの「少女」が現実の少女―――そう、母の腹から生まれでて、その年まで生きてきた本物の少女――とははっきり違うことを感じ取っていた。
 目の前にいる「少女」は、これまで見てきたどの現実の少女たちよりも、絶対的に「少女」だった。それも、人形とは違って期間限定という儚さまで付随している。永遠でないからこそ、惹かれる―――そういった心理は少年にも理解できる。
 異常なまでの「少女性」―――確かに、これでは「少女」に夢中になる人間が後を絶たない筈だ。それほどの、吸引力。
 だが少年は、それ以上の感銘を受けはしなかった。初めて見る「少女」の存在は強烈ではあったが、彼の「人形」への愛や誇りは、それに圧倒されなかった。
 その事実に、少年はいたく満足した。胸の中のもやもやとした感情が、つかえが取れたかのようにすっきりとなくなっている。
 暫く、少女と話してから、少女屋と人形師見習いは部屋を出た。満足そうな顔をしている少年に気づき、答えを知りながらも少女屋は問うた。
「人形師を志しているお客様の目には、“少女”はどう映りましたか?」
 少年は、唐突に来店の目的を指摘されて驚いた。そんな少年の様子を見て、少女屋はちょいちょいと自分の耳朶を触って種明かしをした。それにつられて同じ動作をした少年は、指先がピアスに触れて、漸くばれた原因に気が付く。尤も、別に殊更に正体を隠そうとしていた訳ではないので(そんなつもりがあれば、元々ピアスも篭手もしない)、少年はあっさりと質問に答えた。
 少年の率直に過ぎる答えに、少女屋は口元を綻ばせた。それを見た少年は、自分が生意気な発言をしていることを自覚していただけに、侮られたのだと思って不愉快そうに唇を曲げた。
 その様子を見て、少女屋は笑いを引っ込めた。
「いや、お客様を笑ったんじゃないですよ。実を言うとですね、私はお客様を昔の自分と重ねておりました。けれど、お客様は私と違う選択をしたので―――それがなんとなくおかしかったのです」
「え?」
 目を瞬かせた少年に、少女屋は軽く言った。
「私は昔、人形師だったんですよ。今はこうして少女屋をやってますがね」
「へぇ…」
 少女屋にしてみれば、何の気もなしにした世間話にしかすぎなかったが、その話は思いもよらず、少年の興味を引いたようであった。ついさっきまで、少年はもう帰る気でいた。当初の目的はすっかり果たしたつもりだったのだ。だが、この少女屋は元々は人形師であったという。ということはつまり、彼は人形よりも少女の価値の方を認めたということになる。
 では、彼にそうさせた少女の魅力は、どこなのだろう?
「店主、他の少女も見せていただけないでしょうか」
 少年は請うた。
 少女屋は、意外に思いつつも――彼もまた、少年がもう帰ると思っていた――請合った。
「いいですよ、お好きなだけ見てください」


 最後の七番目の部屋に少年を案内したのは、丁度半刻後であった。窓の外の雨は強くなり、雨音が激しく世界を揺らすようになっている。今夜は荒れるかもしれない、少女屋は思った。
 これまで六体の少女を見てきた少年は、食傷気味になっているようであった。どんな外見の、どんな性格の美しい少女たちを見ても、人形以上の美しさを彼が見出すことはなかった。人形の、完全に人間の手で作られた存在であるがゆえの完璧な美を、彼は愛していた。不完全であるがゆえの美しさの存在を彼は認めたが、それは彼の感性には合わなかった。はっきり言うと、彼は「少女」を見ることに飽いたのだ。だが、これで最後の「少女」だ。
 どうぞ、と扉を開いた少女屋の口調に、引っかかるものを感じて少年は訝しく思った。少女屋はこれまで丁寧で落ち着いていた。いや、今もそうなのだが、何処かいつにない緊張を孕んでいるような気が―――した。
 しかし少年は、違和感を感じたもののそれ以上は気にすることはなかった。促されるままに部屋の中に入り――――人形師見習いは、眼を、瞠った。
 そんな少年の様子を見て、上半身の筋肉がぶるりと戦慄するのを少女屋は自覚した。少年の硝子玉のような眼球の周囲に、毛細血管が浮き出ている。少女を凝視しているのだ。
「君、名前は……」
 呆然としたように、少年はうわ言めいた声を出した。
「ああ、そうか。“少女”には名前がない………」
 つけることができるのは、マスターのみ。唯一、少女に愛されることの出来る者のみ。
「………君」
 少年の声に、しかし少女が反応を返すことはなかった。他の少女とは違う。少年は困惑して、立ち尽くした。
「この娘は滅多に話さないよ。そう生まれついている」
 立ち尽くしている少年を見ることに耐えられず、少女屋はそう言った。―――平静を装いながら、しかし咽喉はからからに干上がっている。そうして、己の衝動になんとか抗い、少女屋は少女に声を掛けた。
「お客様だよ。こっちを向いて」
 その声に従い、ちらりと少女は少年を見た。
 少年は、ぎくりと肩を強張らせる。黒の視線―――深遠の闇。
 全く感情を持っていないとも思える少女の無表情………けれどそこに押し込めた狂おしい感情の存在を、少年は見出す。
 少年は染められた。



*     *     *



 引渡しの日、少女屋は購入者が指定した、胸元に大振りのレースをあしらった白のワンピースを「少女」に着せた。胸元にある朱色の蓮の刺青が引き立って美しい。――目が眩む程に。
 どうやら、あの人形師見習いの少年は相当な家の息子であったようだ。反対されながらも家出同然で人形師のもとに弟子入りしていたのだが、両親に「少女」を購って貰うことを条件に、実家に戻って親の跡目を継ぐことになった――少年は、そう言っていた。己の自由を代価に、少年は少女を手に入れたのだ。
 少女はマスターとなった少年を愛するだろう。それが「少女」の本能であり生理なのだから。
 ―――少年に、少女を売らないでおこうと思えば、できたのだ。これは商品ではないと、私のものなのだと言い張れば済む話であった。
 だが、少女屋は己の「少女」に対する執着が恐ろしかった。永遠を約束された人形相手であれば、誰が異常と言おうと恋せよう、愛しめよう。しかし少女はいつか老いてしまう。なにも、老女になるのではない。本物の少女のように女になる。だが「生まれながら」に「少女」である彼女たちが「少女」でなくなる、それは成長などではなく、老いでしかない。人間の少女が成長して女になるさまのように美しいものではなく、目を覆わんばかりに醜悪な。
 だから多くの「少女」の所有者は、そのときが来る前に少女を廃棄する。慈しみながら、惜しみながらも迷いなく。―――少女屋はこの「少女」が廃棄されるところなど見たくはなかった。この手で「少女」を廃棄できるとは到底思えなかった。しかしだからと言って、これほどまでに執着した少女がむざむざと老いてゆくのを傍で見ていられまい。廃棄するか、老いに耐えるか。この少女に関して、そのような選択を迫られること自体、我慢しがたかったのだ。
「君のマスターは、君を慈しんでくれよう」
 少女の髪を梳かしつけながらそう言った。艶やかなその髪に口吻けたいという欲求を堪えて。
 自分がどうしてこれほどまでにこの少女を思うのか、少女屋には分からなかった。狂気に捕らわれてしまっているのだろうか、自分は?
 少女は、ただ黙って少女屋のされるがままになっている。
 最後に少女の爪に透きとおる淡い赤を塗り終えると、少女屋は元々細い目を更に細めて、少女を見詰めた。刹那、少女屋の胸を何かが押しあがった。

「―――睡蓮」

 するりと唇から零れたそれは、密かに名づけた少女の名前。
 少女に名前などつけてよい訳がない。だからこそ、少女屋は胸中でのみそう呼び、独りきりのときでさえ口に出すことを己に禁じていたというのに。
 少女は、はっと肩を振るわせた。―――これまで少女屋は多くの少女たちを扱ってきたが、このような仕種をした少女などただの一体もなかった。どれほど表情豊かな部類に入る少女さえ。まして、この少女は表情豊かどころか、表情を浮かべることさえこれまでなかったというのに。
 空気が、危うく揺れた。
 戸惑いながら、少女屋は尋ねる。
「どうした」
「……すた」
「聞こえない。どうした?」
 少女屋の促しに、少女は顔を上げて少女屋を見詰めた。漆黒の瞳が少女屋と捉えている。
今、初めて少女と通わせるのは、あまりに不可解な、それでも泣きたくなる程に透明すぎる感情。光景。ああ、こんなにも狂おしい。――何故!


「マスター」
 少女は、少女屋をそう呼んだ。



*     *     *



 先日とは打って変わって貴公子然とした格好で少年は来店した。明らかに憔悴しているといった何処か異常な目つきをした少年は、しかし暖かく少女に微笑みかけた。反応を返さない少女に対して落胆を覚えただろうに、少年はそれを表情に出すことは押さえ込み、まるで壊れ物を扱うように大切に少女の手を取った。
「君を、ライヤと名づけるよ」
 如何にも大切な儀式であるかのように、厳かに少年は告げる。
 その様子を、少女屋は静かに見守っていた。
 少年はふと少女屋を見ると、一礼した。そして彼は少女の手を引き、店を去った。
 からん。
 軽やかな音を立てて、扉が閉まった後でも、少女屋は彼らを見送ったときのままに、半ば呆然として立ち尽くしていた。
 『マスター』―――その言葉を何度も繰り返し頭の中で反芻する。
 嗚咽を噛み殺し、少女屋は瞳をきつく瞑った。
 私は一生忘れることができないだろう。
 睡蓮、君が最後に見せた仕種と、滅多に声を出さない君が紡いだ、その言葉を。
 マスター。
 君の声は掠れ、小さかった。しかしそこには深い熱が。
(………嗚呼)
 唐突に少女屋は、己にその言葉が冠せられた意味を、悟る。








 ――――少女は愛を啼いたのだ。










・End・ 



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